那波氏は鎌倉幕府草創期の功臣大江広元の子政広(宗元)を 祖とし、政広が上野国那波郡の郡地頭として入部し那波氏を称した |
ことに始まる。
1541年(天文10年) 那波氏当主、那波宗俊
庁鼻和上杉・厩橋の長野賢忠・武蔵忍の
成田長恭・下野の佐野昌綱とともに金山城主
横瀬恭繁を攻めるが、境城主の小柴長光が
叛ったため敗れて討死。
那波宗元が家督を継ぐ。
1546年(天文15年) 上杉憲政に従い河越城の戦いに参戦。
山内上杉・扇谷上杉・古河公方足利連合軍
8万が北条氏康8千に大敗(河越夜戦)
1547年(天文16年) 上杉憲政が武田晴信に大敗(小田井原の戦い)
那波氏は 上杉憲政⇒北条氏康 に従属する。
1552年(天文21年) 上杉方の由良・足利・長尾・佐野・桐生・大胡・
厩橋長野が攻めてくるが、河西衆(箕輪長野・
安中・小幡)が後北条側につき退ける。
上杉憲政が平井城から逃亡。
北条氏康により平井城が落城。
1554年(天文23年) 那波氏と長尾氏の勢多郡漆窪の土地に
対しての論争を、後北条氏が裁く。
1560年(永禄3年) 上杉憲政を擁して長尾景虎(上杉謙信)が
上野に出兵。
稲荷山城(今村城)・伊勢崎(赤石城)を
落とされ、堀口城(那波城)を囲まれた。
那波宗元は次男の次郎(那波顕宗)を人質
として降伏するが、間もなく病死。
長男の那波無理之助は脱出し、武田晴信に仕える。
1561年(永禄4年) 那波氏の領土は由良成繁に与えられる。
1562年(永禄5年) 上杉謙信の家臣・北条高広が厩橋城主となる。
那波顕宗は北条高広の妹を正室とする。
(北条と那波は同じ大江氏系)
1566年(永禄9年) 由良成繁・北条高広が 上杉謙信⇒北条氏康 に
従属する。
由良氏の帰属の条件として、旧那波領が那波顕宗に
返還される。
(那波城・今村城・茂呂城)
那波無理之助は武田氏に従い箕輪攻めで活躍。
1569年(永禄12年) 越相同盟(上杉氏・後北条氏)
北条氏秀(上杉景虎)が謙信の養子となる。
那波顕宗・北条高広が 北条氏康⇒上杉謙信
に帰属する。
1571年(元亀2年) 北条氏康死去により、越相同盟解消
上杉謙信が報復として上野の各地で
放火・略奪・暴行を起こす。
由良氏の赤石城に上杉勢が火矢を射かけ焼失。
1573年(天正元年) 那波顕宗は 上杉謙信⇒北条氏政 に
従属する。
1574年(天正2年) 北条氏照の指示で那波城・茂呂城を固め、
上杉謙信の攻撃に備える。
北条氏政は玉村御厨の宇津木氏久に
今村城に移動して那波顕宗の指揮下で
戦えと指示。
1575年(天正3年) 那波無理之助は長篠の戦いに参戦し
鳶ノ巣山で討死。
1578年(天正6年) 上杉謙信の死によって上杉景勝・上杉景虎の
跡目争いが起こる(御館の乱)
1579年(天正7年) 御館の乱にて北条景広(高広の子)・上杉憲政が
討死。
那波顕宗は北条高広・宇津木氏久と共に
武田勝頼 に従属。
1582年(天正10年) 武田勝頼が織田信長に滅ぼされる。
那波顕宗・北条高広は 武田勝頼⇒滝川一益
(織田)に従属。
織田信長が明智光秀に討たれる(本能寺の変)
滝川一益が北条氏直に敗北(神流川の戦い)
那波顕宗 滝川一益⇒北条氏直 に従属。
北条高広 滝川一益⇒上杉景勝 に従属。
北条高広が攻めてくるが、宇津木氏久と共に
玉村城に拠って撃退。
1584年(天正12年) 「厩橋御陣」開始。
北条氏照が北条高広の厩橋城を攻め落とす。
1585年(天正13年) 北条氏直が由良国繁・長尾顕長兄弟の
居城を没収。
1587年(天正15年) 那波顕宗は家臣や家臣の子弟などを
人質として厩橋城に送る。
北条氏直が那波氏の領地を占拠。
那波顕宗は上杉景勝を頼って落ち延びる。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉による北条氏直への攻撃開始
(小田原征伐)
那波顕宗は上杉景勝に従い上野の諸城を
攻めるも、領地回復ならず。
1591年(天正19年) 奥州九戸の陣で那波顕宗戦死。
1622年(元和元年) 伊勢崎の竜泉寺で旧家臣達による
那波顕宗の33回忌が催される。