享徳の乱・長尾景春の乱・長享の乱・永正の乱 と、数々の大乱を潜り抜けてきた関東管領・上杉氏率いる上州一揆。
多少の小競り合いはあったが、互いに協力しながら上州の領土を護ってきた。
そんな折、小田原の北条氏康が勢力を伸ばしてくる。
天文15年(1546年) 関東管領・上杉憲政は扇谷上杉氏・古河公方足利氏と
同盟して、約8万の大軍で北条綱成の篭る河越城を囲む。
だが多勢に慢心して士気が上がらず、逆に北条氏康の夜襲を受け大敗を喫する。
上野の西では甲斐の武田晴信が信濃に侵攻して、佐久郡の志賀城を包囲。
天文16年(1547年) 関東管領軍は志賀城を救出すべく碓氷峠を越えて進軍するが、小田井原で武田軍に敗北。
関東管領の影響力が弱まると、赤石の那波宗元・国峰の小幡憲重らが離反する。
天文21年(1552年) 北条氏康が上杉憲政の居城・平井城への攻撃を開始すると、箕輪の長野業政ら河西衆や馬廻衆も北条方に寝返ってしまった。
ここに一枚岩を誇っていた上州一揆は 完全に瓦解した・・・
※上野史考
『上州は武田・上杉・北条の草刈り場であった』
自称・歴史学者たちの言葉である。
だが、私はそうは思わない。
多種多様の武将・数々の戦い 調べれば調べるほど、上州の戦国時代は面白い
15人の娘を近隣の国衆に嫁がせ、一致団結で家を守ろうとした中毛の長野業正
強き者に仕え、戦場で功名をたてることにより家を盛り興そうとした西毛の小幡信貞
主家を追い落とし、下剋上で大名化を成し遂げた東毛の由良成繁
同じ上州人でも、それぞれ違う考え方で戦国時代を乗り切ろうとした。
誰が成功して誰が失敗したか
結果論はどうでもいい
上州にも勇将はいた もっと群馬県民には地元の武将に誇りを持ってもらいたい。