私だよ 上皇様だよ。

 

今日で最終回を迎えたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、尾上松也演じる後鳥羽上皇は承久の乱で鎌倉幕府軍に大敗を喫し、隠岐へ配流された。

 

鎌倉幕府四代征夷大将軍 藤原頼経(幼名:三寅)の父である摂政 九条道家が、幕府に対して上皇の還京を嘆願したが受け入れられず1239(延応元)年配所で崩御した。

 

後鳥羽院が山陽から中国山地を超え、安来から船で隠岐へ向かう途上に立ち寄り、和歌を詠んだとされる伝承地が境港市役所近くにある。

 

 

旧上道村役場(現上道こども館|皇の松会館)付近がそれだと伝わる。

 

 

会館前に「境港市指定文化財」の標柱と由来書き看板があある。

 

 

伝説 皇の松 由来

 

 承久三年(一二二一)鎌倉幕府に敗れ、都を追われた後鳥羽上皇は、絶海の孤島隠岐の島へと配流され給う。七月十三日数人の近侍と警護の武士に囲まれて都を出発、不自由な旅を続けられ山陽より伯耆の山々を越えて、出雲国安来港より海路隠岐の島へと向ふ途次、上道灘に船を寄せられ、浜辺の松の下で、しばしご休憩あそばす。

 

 其の時、松の下に住む翁ありて、上皇に茶とそば餅を献じ、お慰め申し上げたところ、上皇は大いにお喜びあそばされ、短刀一振りと松の下にちなんで松下の姓を、御下賜された。

上皇は本土との別離を目前にして、悲痛の心を歌に託され

 

天が下 おほふ袖たに なきものを

 

            志ばしはゆるせ 浜松のかけ

 

と御製あらせられる。

 

 往時の松は近郷近在の類なき名松であったが、明治三十年惜しくも枯れた。計測の結果、高さ十八尋一尺(二七・六米)幹の周囲五尋(七・六米)であったと伝えられる。

 その後松は地主神として祀られ、地元の人達は「皇の松」と呼んで崇敬している。又、この地を王神敷といひ、現在の松はその後のものである。

 昭和五年八月、昔日の上皇を偲んで、御製を刻んだ御駐輦趾碑(ごちゅうれんしひ)が建てられ、今に伝えられている。

 

昭和六十一年八月

 

上道皇の松保存会

 

以上、由来書看板転載

 

由来書きによると、およそ800年前この周辺は浜辺で、ここに大きな松があり、上皇はその下に座って休憩し、本土との別れを惜しんで和歌を詠んだという。

 

 

天が下 おほふ袖たに なきものを

 

            志ばしはゆるせ 浜松のかけ

 

院の休憩中、近くに住んでいたおじいさんが、そば粉で作ったもちとお茶を献上し慰めの言葉をかけたという。それに院は大いに感激し、持っていた短刀とマ「松下」の姓をお年寄りに与えたという。

 

 

院がその下で休憩したと伝わる松は「皇の松」と呼ばれ、高さ27.8m、幹周り7.6mという近郷近在に比類のない名松であったが、1897(明治三十)年に枯れた。

 

 

現在の松は5代目。

 

 

院の遺骨が納められている島根県海士町の後鳥羽上皇火葬塚敷地内の松を2011(平成23)年に移植したもの。

 

 

5代目皇の松の傍らに1930(昭和5)年、院の歌碑が建立されている。

 

 

天が下 おほふ袖たに なきものを 志ばしはゆるせ 浜松のかけ

 

近くの上道公民館には皇の松の伝承に関する史料や承久の乱の解説パネル、ドラマの登場人物の相関図を展示が展示されている。

 

 

現代に承久の乱が勃発したならば、尾上松也は伯備線、境線を経由して、境港から鬼太郎フェリーで隠岐へ流されるのだろうか?

 

 

なお、上道(あがりみち)という地名は、港から京へ上がる時、初めに通る道があることに由来するという。

 

◆概要

名称:皇の松伝承地

所在地:鳥取県境港市上道町

駐車場:無

●アクセス

自動車:米子自動車道米子ICより国道431号経由約20km40分

鉄道:JR西日本境線上道駅下車1.2km徒歩15分

バス:境港駅よりはまるーぷバス・メインコース右回り17分「上道公民館」下車2分