日野川による砂礫の供給、海面水位の変化、海流、波風、洪水などの気象変化の影響に加え、たたら製鉄の鉄穴流しによる大量の砂が美保湾へ流出し弓浜半島を形成。

 

 

水運の要衝だった弓浜半島の先端に1902(明治35)年11月1日、境駅から米子駅を経由して御来屋駅に至る山陰西線が開業。

 

 

開業当初、境駅は現在地より500mほど南に位置していた。

 

 

現在その場所には、境港市教育委員会が建立した「山陰鐡道發祥之地」がある。

 

 

由来書きによれば、境駅は1914(大正3)年に海岸寄りの現在地付近に移転し、境港駅と改称されている。

 

また1943(昭和18)年、米子空港の前身となる美保飛行場が開港。

 

 

1958(昭和33)年には、民間航空機が利用する共用空港としての運用が開始。

 

 

鉄路と空路、交通インフラが整ったことで、弓浜半島は山陰有数の観光地となった。

 

 

そして観光地に欠かせないものが、弓浜半島の付け根にある。

 

 

それは、温泉。

 

野口雨情 作「皆生小唄」の一節

 

〽海に湯が湧く米子の皆生 波の音さえ寝てて聞く

 

皆生温泉の年間の入湯客数は鳥取県内最大。

 

 

天正年間(1573~1592年)に命名された「海池(かいけ)村」の名が、江戸時代の末期の1867(慶応3)年、「皆生村」と改名統一されたことがその名の由来とされている。

 

 

また、このような俗説もある。その昔、出雲の稲佐の浜から泡となって流れた魂たちが海岸に流れ着き、新しい身体と心が蘇生(よみがえる=黄泉の国から帰る)されて皆、生まれ変わった。このことから、当地を「皆生」と呼ぶようになったという言い伝えも残っている。

 

1900(明治33)年、皆生温泉の浅瀬に湧き出す熱湯を偶然にも漁師が発見したのが始まりと言われています。本格的な開発が行われたのは1920(大正9)年。皆生温泉開発の祖・有本松太郎によって総合的な開発が実施された。

 

 

皆生海岸は、たたら製鉄による砂鉄採取の鉄穴流しの大量の土砂が、日野川からの流出したことによって形成された。

 

 

海岸沿いに皆生海岸のかんたんな歴史を記した看板が設置されている。

 

 

ところが幕末に西洋から近代製鉄技術が伝わり、たたら製鉄が衰退。これにより土砂流出が激減。このため大正末期から昭和初期にかけて皆生海岸の浸食が始まり、海岸線の幅約300mに渡って60mも後退。泉源や旅館建屋の流失が相次いだ。

 

戦後間もなく、鳥取県が突堤工事に着手。これに次いで、突堤、堤防、堤防基礎の補強を実施したが、海岸線の固定化には至らず。

 

このため、1971(昭和46)年から離岸堤の施工を実施。効果があったことから以降、1990(平成2)までの間、皆生沖に13基、日吉津沖に14基の離岸堤を逐次整備。海岸線の固定化に成功した。

 

猛烈な押し波が打ち寄せ、その反動で強烈な引き波が発生。

 

 

それによって発生する恐ろしい離岸流により海岸線が猛烈な勢いで後退。

 

 

弓ヶ浜海岸のほぼ全域に亘って遊泳禁止となっている理由がその離岸流。

 

 

鳥取県西部で唯一、皆生海岸に遊泳可能な海水浴場が開設されるのは、強固な離岸堤が整備されているから。

 

 

それによって海岸線の固定化だけでなく、トンボロ現象で砂浜が増進。

 

 

このトンボロ減少の大きな事象が弓浜半島の形成。

 

離岸堤が島根半島で砂浜が弓浜半島。

 

 

これ以上に解りやすい例えが見つからないぐらい完璧な説明。

 

 

なお、皆生海岸直轄事業記念碑と建設省中国地方建設局倉吉工事事務所が記した経過記録の銅板が海岸沿いに設置されている。

 

 

そして今回、個人的にすべてを持っていかれたのが、野口アナが放ったひと言。

 

 

背中つりそうなポーズ。

 

 

そげだ。

 

 

この身体の反り方は、弓浜半島を表しているともいえよう。

 

以上、後編おわり。

 

最後にお知らせ。

 

9月はブログアップを休止し、10月より再開する予定です。