鎌倉幕府の将軍年代記『吾妻鏡』に後年記された記事によると、建久9年(1198)12月27日、源頼朝が相模川橋供養の帰路に落馬。これが元で建久10年(1199)1月13日に53歳でこの世を去った。
その死因は、持病の飲水病(糖尿病)悪化によるものの他、北条氏による暗殺説や怨霊の仕業説など、その真相は今以て謎に包まれている。
頼朝卿の墓所は鎌倉の白旗神社の五重の石塔がそれだとされるが、それ以外に鹿児島市に頼朝卿の墓とされる石塔がある。
ところが鳥取県倉吉市郊外の山中にも頼朝卿の墓だと伝わる五輪塔が存在する。
頼朝卿が鳥取を訪れたという史実は無く、全く以て謎としか言いようがない。
頼朝卿の墓は鳥取県道34号倉吉赤碕中山線から150mほど入った丘陵斜面にひっそりと佇む。
特にそれを示す標などはなく、知る人ぞ知る史跡。インターネット上にも詳細な記事はなく、最寄りの大日寺で場所をうかがってようやくたどり着くことができた。
その登り口は、大日寺の大イチョウ手前のコンクリート石垣の端。
草茫々のあぜ道伝いに170歩。
大した距離ではないが、心理的負担は大きい。
小さな五輪塔に囲まれ、左右を石仏に護られたひと際大きな五輪塔が頼朝卿の墓。
頼朝墓古墓群の他、近隣に大イチョウを取り囲む円地坊古墓群、極楽峯古墓群がある。それらは鎌倉時代から室町時代に造られたもので、三つ合わせて「大日寺古墓群」として1983年(昭和58)年4月26日、県史跡に指定されている。
数多ある五輪塔の中で一番大きなものが頼朝卿の墓とされるもので高さは2.2m。
材質は凝灰岩、鎌倉時代後期に造られたものだと推定されている。
それら多くは笠の部分の火輪の軒幅が、胴体部の水輪の幅より狭く他地域と比べ独特なことから「大日寺式」と呼ばれ、東伯耆を中心に美作(岡山県西部)辺りまで分布している。
◆概要
名称:源頼朝の墓
所在地:鳥取県倉吉市桜
駐車場:県道沿駐車可
●アクセス
鉄道・バス:JR西日本山陰本線倉吉駅下車日交バス高城線大立行桜経由乗車30分桜バス停下車徒歩15分
自動車:倉吉道路西倉吉ICから鳥取県道34号倉吉赤碕中山線経由10km20分