鳥取県道31号鳥取国府岩美線を鳥取市内から殿ダムに向かっていると、左手に大きく掲げられた「新井の石舟 Ni-i no Ishibune ⇒」の案内標識。

 

 

ローマ字表記でおわかりいただけただろうか?

 

「あらい」ではなくて「にい」。そう「にい」。「二位の尼」の「にい」。

 

二位の尼とは、平清盛の正室(継室)時子のことで、宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生んだ。1166(仁安元)年10月21日、異母妹の滋子(後の建春門院)が生んだ憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子により、従二位に叙せられた。

 

1171(承安元)年、娘の徳子が高倉天皇に入内。1180(治承4)年4月、徳子が生んだ外安徳天皇が即位すると、清盛とともに准三宮の宣旨を受ける。清盛死去後は、一門の精神的支柱として、家長的的な存在となった。

 

源平の最終決戦、壇ノ浦の戦いにおいて、平家が大敗北を喫すると、二位の尼は、天叢雲剣と八尺瓊勾玉を携えて、幼帝とともに入水した。

 

ところが、安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平家の残党に警護されて落ち延びて隠棲したという伝承地が全国各地にあり、本県にも鳥取市や八頭町、三朝町などに隠棲したという伝説が残る。

 

鳥取市国府町の「岡益の石堂」について、安徳天皇に縁故があると推測した宮内省は、1895(明治28)年「御陵墓参考地」に指定し管理している。

 

 

また、その近くある「新井の石舟」が、二位の尼(平時子)の墓だと伝わる。

 

 

新井の石舟古墳は、県道沿いの看板から約500m、新井集落最深部のさらに奥の奥の奥の山中にひっそりと佇んでいる。

 

自動車での進入は困難なため、集落入口の新井地区広場に駐車して、あちこちに掲げれられた道標に従い徒歩7分ほど。

 

 

集落を抜けた先、害獣侵入防止の柵の奥。

 

 

ゲートは開けたら必ず閉めよう。

 

 

〽言うこと聞かない悪い子は、夜中平家が迎えに来るんだよ

 

 

新井谷川新井砂防堰堤に突き当たって左。

 

 

堰堤を超えて行く行く。

 

 

人っ子ひとり、猫の子一匹いない。

 

 

うら寂しい山道をさらに奥へ分け入る。

 

薄暗く、足元も悪い、距離以上に遠く感じる。

 


それは突如として現れた!!

 

 

斜面の上に建つ社殿の威圧感。

 

長く長く感じた道程、ゲートからここまで2分。

 

 

古墳は左に立つ標柱の奥。

 

 

社殿に立てかけられた看板。

 

 

石舟古墳

 

この古墳は新井集落の向山の墓地にあり、直径10mの円墳と推定され、横穴式石室の玄室に凝灰岩をくり貫いた家形石棺が安置されています。

石棺は蓋と身からなっており、蓋石は2枚ありましたが、現在は1枚だけが身にのせられており、上の方が扁平な屋根型に加工され、横には方形の把手が造られています。大きさは厚さが約24cm、一辺1.14、身の方は縦1.9m、横1.1m、深さ55cmを測ります。

 6世紀の終わりごろにから7世紀前半ごろの古墳と推定されており、昭和58年に国府町の史跡に指定されています。

 また、平家伝承に関連させ、、平清盛の妻、「二位の尼」の墓だという伝承もこの古墳にはあります。

 

国府町教育委員会

 

以上、案内看板全文転載。

 

ほぼ全貌。

 

 

玄室見学可。なれど入棺非推奨。

 

 

岡益の石堂の築造は奈良時代後期、新井の石舟は古墳時代後期の築造で、両者との関連性は薄いともされているが、否定できる根拠もない。

 

◆概要

名称:新井の石舟

所在地:鳥取県鳥取市国府町新井

建築年:古墳時代後期
形状:円墳

駐車場:新井地区広場に駐車可

公開状況:内部見学可

●アクセス

鉄道・バス:JR西日本山陰本線鳥取駅より日ノ丸バス中河原線25分新井下車徒歩5分
自動車:鳥取自動車道鳥取ICから国道29号経由12km25分

 

■日ノ丸自動車路線バス時刻表