今月初めで鳥取県を離れて日々苦戦、日々満身創痍で1年9ヵ月が経過。その間、度々帰鳥しているが、米子の中心市街地は未踏。
南北一体化工事に伴う米子駅舎の解体を控えて、10月29日~11月3日の期間、コンコース一般開放が実施された。その訪問に合わせ、米子駅のある弥生町から本通り商店街を経由して灘町の米子まちなか観光案内所までの1.8キロメートルを踏破。
あの時あったものが無くなっていたり、なんだだこれ?なおもしろ物件に気づいてみたり、
これ、どうやって駐車するだ?と、悩む人が続出!?
「ホテルビジネスインよなご(米子市万能町)」の駐車場。
2018(令和三〇)年12月16日まで鳥取県で一番高かった建築物、「米子ユニバーサルホテル(米子市万能町)」。
同ホテルより50センチメートル高い鳥取県立中央病院に県一の座を奪われた。
「仮称 三角ハウス(米子市道笑町)」。
メンズ館ではない。
だるま妖怪が乗っ取りを企みそうな1925(大正一四)年頃に建設された米子初の貸しビルで、米子で最古の鉄筋コンクリートビルディング、「米子専門大店ビル(米子市道笑町)」。
当ビルは地上3階建で4階は元から無い。
増屋の角に立地する「DARAZ CREATE BOX(米子市法勝寺町)」は、山陰合同銀行本通り支店をリノベーションした複合商業施設。
物販の他、コミュニティFM局DARAZ FMが入居している。
山陰最古の企業とされる「石賀本店(米子市法勝寺町)」。
創業は500年前、室町時代の永世年間(1504~24年)。
10年前から閉まっていた「木山金物店(米子市法勝寺町)」。
この日もやっぱり閉まっていた。
小路の突き当りに立つ真宗大谷派の古刹「西念寺」。
1593(文禄三)年2月、米子市尾高に創建。後に中村伯耆守一忠の帰依を受け、慶長年間(1596~1615年)に現在地に移転した。
本通り商店街(米子市紺屋町)アーケード。
「砂屋呉服店(米子市紺屋町)」。
「オモチャのこばやし(米子市紺屋町)」。
『鶴瓶の家族に乾杯』※2018(平成三〇)年11月12日放送に登場。詳細は、とてもここでは言えん。
アーケード商店街に突如として現れる江戸後期の町屋「大寺屋船越家住宅(米子市紺屋町)」。「県民の建物100選」に選定されている。
船越家は宝暦年間より栄えた豪商で、日本刀草創の宗家・沢口伯耆守安綱の末裔であると伝わる。
山陰の大動脈、国道9号に合流。中町交差点の一角を占める山陰歴史館(米子市中町)は、1930(昭和五)年完成の旧米子市廳舎。
設計者は早稲田大学建築学科の創始者・佐藤功一とその部下・増戸憲雄。
山の上に見える石垣。
あれは、標高90メートルの湊山に築かれた天空の城「米子城(米子市久米町)」。
あっ!!
山陰合同銀行旧米子支店(米子市東倉吉町)の建物が無くなってる。
昔、ここには播磨屋呉服店があり、その跡地に山陰合同銀行の前身である米子銀行の本店が建設された。
この旧米子支店の建物は1965(昭和四〇)年前後に建替えられたもの。
米子に数えるほどしか残っていない巨大建築物。
広い空が更に広く感じる。
山陰の大阪、商都・米子の象徴的物件。
ごうぎん-歴史館(旧市廳舎)-米子城の並びは、もう見られないのか・・・
中心市街地の中心に広い空き地。
今まで見えなかったものが見える。
初代市廳舎と二代目市庁舎の並び。
国道9号を隔てた向こうに米子市美術館(米子市加茂町)と三代目米子市庁舎(同)も見える。
あっ!!
噴水のライオンが消えている!!
ガオ―――ッ!!
国道9号の真正面、JU米子高島屋の本館と東館を結ぶ渡り廊下が見える。
国道9号が左に大きく曲がっているため、松江方面からよく見えるようにと店舗正面ではなく裏手にマル高の商標が設置されたと聞いたが真偽不明。
「伊藤足袋店(米子市東倉吉町)」。
「持田金物店(米子市東倉吉町)」。
米子随一の看板建築、旧理髪店「第一モデル館(米子市西倉吉町)」。
ここにあった町屋も無くなり駐車場になっている!!
この前を走る小路の東側に昔、呉服商羽織屋があったことから「羽織屋小路」と呼ばれている。
解体された町屋の一軒に不思議な看板が掲げられていた。
「小書齋(米子市西倉吉町)」。
どゆこと?
リモートワークに最適な貸し書斎?
あっ!!
おわかりいただけただろうか?
この蜂の巣が小書齋?
羽織屋小路の先に架かる郵便局橋向こうの「中央駐車場(米子市西倉吉町)」が、鳥取県西部と島根県東部に25店舗を展開する地方スーパー「丸合」の発祥地。
1947(昭和十二)年10月、海外の引揚者が西倉吉町で「よなごマーケット」開設。1954(昭和二九)年、「協同組合丸合百貨」を設立し、ここに第1号店を開店。屋号の由来は、商業の中心中の中心、大阪・心斎橋に店を構える百貨店、大丸と十合(そごう)ような立派な商人になりたいという夢を込めて、大丸と十合から一字ずつ取ったという。
加茂川に架かる八百八橋の向こうに見える大豪邸は、近代米子の発展に大きく寄与した日本屈指の地方財閥・坂口家のお屋敷。
昔、河童が出たという「曲がり淵(米子市尾高町)」。
今は流れが穏やかだが、昔は流れが速く複雑に渦を巻き、子供が溺れて命を落としたという。
本通りを横切る加茂川に架かる加茂川橋は、かつて市街地へ水道水を送るための水道橋。役目を終えた現在は、米子の水道の歴史を物語る証人として、市の有形文化財に指定されている。
あっ!!護岸の石垣が!!
中はこうなっているのか!!
本通り沿いにあってひと際目を惹く壮麗なビルヂングは、坂口財閥のヘッドオフィスとして1931(昭和六)年12月に竣工した「坂口合名ビル」。
尾高町と岩倉町の境を南に進むと天神橋。
米子城搦手門跡へと続く。
岩倉町では、今でも祝祭日に日章旗(日の丸)が掲げられる。
岩倉町と立町の境、鉤の手に曲がったこの中ノ棚の曲がりにあって、巨大な一銭銅貨の看板が目を惹く「一銭屋岡本商店(米子市立町)」。
創業は1934(昭和九)年、あめ玉からおもちゃまで子供の喜ぶものを何でも一銭で揃えたため、いつしかそれが屋号になったという。巨大な一銭銅貨は、木型を銅板で包んだもので、直径1メートル。1950(昭和二五)年に開催された米子博覧会を記念して作ったもの。
一銭屋は、昔も今も子供たちの社交場。休日には、かつてのここに通った子供たちが行列をつくることもしばしば。
町屋と石柱。
立町のとある場所に人だかり。
その先、「米子まちなか観光案内所(米子市灘町)」。
こゝから米子駅へUターン。
端折って、端折って、法勝寺町。増屋の角を曲がった先の元町サンロード沿い、「詩人・生田春月生家跡(米子市道笑町)。
頭上注意。
螺旋階段がオシャレな「サンロードいしかわ(米子市道笑町)」。
「元町パティオ広場(米子市道笑町)」。
ここが新出雲街道(上方往来)の起点となり、出雲街道や境往来と交差することから「米子のヘソ」と呼ばれてた。
国道9号開通までは、この元町通りが米子のメインストリート出雲街道。
小路の向こうにそびえるマンション。
昔、ここに米子大丸があった。
唐突にここで終わり。