墳丘長73メートルの前方後円墳の石室内に祀られた稲荷大明神。
「伯清稲荷大明神」が祀られている「天塚(あまづか)古墳」は、古墳時代後期の6世紀前半に築造されたと推定され、新羅からの渡来人集団で、大陸から製陶、養蚕、機織などの新技術を持ち込んだとされる秦氏の墓だと考えられている。
秦氏一族が開発した嵯峨野・太秦地区に位置しており。周辺には広隆寺、松尾大社、蛇塚古墳など秦氏に関係する寺社・史跡が点在している。
当社は、秦氏に関係するとされる蚕の社の南およそ800メートルの地点に位置するが、入り組んだ住宅地の縁にあるため、訪れる人も少なくひっそりとしている。
場所を知っていても、初見でたどりつくのはなかなか大変。住宅地の奥にそれらしき緑が見えるものの、どこから入ることができるのかが謎。近年、同古墳を訪れる人がまゝ居るようで、スマホ片手にきょろきょろしていたら、自転車に乗った京都マダムに「古墳やろ?その電柱を入ったところ」とご教示いただきました。
住宅と住宅の間、ひっそりとたたずむ赤鳥居を潜って参道を上った先にある建物は「稲荷教 伯清教会」。
史跡 天塚古墳 (昭和53年3月3日指定)
この古墳は、6世紀前半につくられたと推定される前方後円墳で前方後円墳で、嵯峨野・太秦古墳群のなかで、史跡蛇塚古墳に次ぐ全長70メートル余りの規模をもっている。墳丘にはめずらしく後円部西側の無袖式、西側くびれ部の片袖式と、2基の横穴石室がある。
明治20年(1887)の石室発掘調査の際には、銅鏡、馬具、勾玉、鉄鏃など約400点の副葬品が出土した。それらはいま、京都国立博物館や京都大学に保管されている。
近辺の古墳分布や遺物などを考え合わせると、この天塚は近くの蛇塚や甲塚と同じく、大陸から渡来してこの地域をひらいた秦氏一族の墓と推定され、往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手がかりとなっている。石室内には現在、伯清稲荷大神の祭壇がおから、巨岩の組合せを見ることができる。
京都市
以上、京都市設置看板全文転載。
石室はこの右手裏にあるが、二の鳥居の先を左に回って古墳を一周。
三の鳥居を潜った前方部の頂には境内社や塚が立ち並ぶ。
周辺や住宅地や工場に囲まれているにもかかわらず、喧騒どころか人の気配すら感じられないここだけが異界の様相。
野仏さんを祀った祠の先に石室があり、内部に伯清稲荷大明神が祀られている。
蚕の社にある「白清稲荷大明神」が当社と似た雰囲気なのは、石室調査が実施された1887(明治二〇)年に遷座されたため、元社を再現したものだと考えられる。
ところが1898(明治三一)年、太秦村に住む九島ちかという女性に稲荷神から元に戻してほしいという夢告があり、息子の庄太郎と共に「御嶽教 白清教会」を組織して天塚古墳に戻したという。その後、1946(昭和二一)年に「稲荷教 伯清教会」が継承している。
石室前に建つ社務所を左に回れば、教会正面に戻れる。
当社の最寄駅は京福電気鉄道嵐山本線嵐電天神川駅だが、秦氏ゆかりの蚕の社と一緒にお詣りをしていただきたいため、蚕ノ社駅からの経路を記す。
下車して同線天神川方面へ少し戻り、喫茶スウィング前を南下。
エスリード太秦山上天神川に突き当たって右に進み地蔵堂がある辻を左折。
すぐ右足元に「白清」の標があるので道なりに南下。
千石荘公園を左に見てさらに南下。
ラウンジ紫苑の手前を右折、砂利道の路地に入り西進。
路地を抜けた先を左折した後は道なり、電柱の所を左に入ったところが天塚古墳。
一の鳥居前で振り返ると、眼前に迫る住宅群。
古墳の西側と南側は三菱自動車京都製作所・京都工場の広大な敷地。
東側は京都帝酸本社・京都工場。
周辺も含めて何れも私有地のため立入厳禁。
◆概要
名称:伯清稲荷大明神 (稲荷教 伯清教会)
鎮座地:京都市右京区太秦松本町18番地
御祭神:稲荷神(宇迦之御魂神)
祭礼日:
駐車場:無
ホームページ:無
アクセス:京福電鉄嵐山本線・嵐電天神川駅下車徒歩約7分・同蚕ノ社駅下車徒歩約8分