住宅密集地の中の不自然に広がる空き地には、何らかの瑕疵がある場合が多いと聞きます。全てがというわけではないのでご了承をいただきたいのですが、住宅地に転用できない土地には、学校や公団住宅などの公共施設を建設したり、公園などが整備されたりする例が見受けられます。昔そこに何があったかといえば、池や沼地、墓地や処刑場などが多いようですが、あくまでも一般論ですので、例外も多々あります。最近ではゴミの埋め立て地の上に学校を建設して、国政が停滞するほどの禍事が発生していますね。

 

さて、「公園」から連想するのは、「緑」や「うるおい」、「にぎわい」などでしょうか。

 

ひと口に「公園」といっても広大な国立公園から町内の児童公園まで多種多様。わが国においては、法律に基づいて大きく三つに大別される。一番身近な公園といえば都市公園法に基づく「都市公園(営造物公園)」で、国土交通省によると平成28年度末時点では日本全国に108,128箇所の都市公園が存在。

 

米子市内でも交通量の多い幹線道路からひと筋奥に入った場所に位置する広さ1,000坪ほどの公園。

 

 

現在は米子の市街地である鳥取県道245号両三柳後藤停車場線と同157号米子港線が交わる錦町3交差点近くに位置する立町北公園の周辺は、明治初期頃までは市街地の境界の外で、砂丘の山でした。

 

 

『ふるさとの思い出 写真集 明治 大正 昭和 米子』によると、市郊外福米村の俗称コレラ山と呼ばれたこの場所に、1923(大正一二)年11月、市営斎場(火葬場)が開設されたとあります。上・中・下、三等級の火葬窯5基を備え、使用料は現在の貨幣価値で6千円から1万円ほど。そのほかにも各種荘厳設備を有し、赤レンガの煙突が美観であったとあります。開設時に付近住民の反対が強かったといい、戦後この付近が急速に住宅地化したことから1963(昭和三八)年に市郊外の長砂町に移転し、跡地は地区遊園地となったと記載されています。

 

錦町3交差点から緩い傾斜を進んだ突き当りに位置する同公園は、三本松と米原にまたがっています。

 

 

同書に掲載されている写真で確認したところ建屋があるのは米原側のようです。

 

 

現在も一段高くなっている東端中央あたりでしょうか?

 

 

公園の西側の入口前には三本松二区公民館があり、その前の御堂に二体の地蔵尊が祭られています。

 

 

このうちの一体は、太平洋戦争末期の1945(昭和二〇)年7月28日午前8時ごろに発生した大山口列車空襲事件で亡くなった身元不明者の供養のためのものだと伝わっています。

 

 

公園の東側入口にある米原八区自治公民館前にも一体の地蔵尊が祭られていました。

 

 

台座に「米原子供地蔵」とあります。

 

どちらの地蔵尊も手入れが行き届いていて、花や線香が供えられるなど手厚くお祀りされている様子でした。

 

◆参考資料

国土交通省 都市局 都市公園データーベース「都道府県別の都市公園等の箇所数の推移」

◆概要

名称:立町北公園

所在地:米子市米原一丁目10

分類:街区公園

面積:3,200平方メートル

供用開始:1972(昭和四七)年

アクセス:JR境線・後藤下車徒歩約7分、米子市循環バス「だんだんバス」・錦町三丁目下車徒歩2分