京橋を渡った本通り手前に立地する明治時代築の町屋は、2列型・奥行き3室の典型的な米子の町屋遺構。

 

 

元畳店、旧茅野邸を個人が買い取りリノベーション中。町屋バンク・資料館としての活用が進んでいます。

 

 

町屋に似つかわしくない程の太い梁が用いられており、解体された米子城の古材が再利用されたものではないかと推測されます。

 

外の改修が完了、内はこれからのようですが、影女が現われそうな荒れたボロ屋の雰囲気。

 

 

この雰囲気、嫌いではない。

 

旧茅野邸のすぐ北、通りを隔てた立町通り沿いの灘町大谷家は、立町村川家と共に1618(元和四)年に幕府より竹島(現在の鬱陵島)への渡海事業を許可されます。

 

 

 

1661(寛文元)年には松島(現在の竹島)での漁猟などが許可され、アシカ猟などを実施したことが記録にあります。1696(元和九)年に幕府が鳥取藩に鬱陵島への渡海禁止を出された(現在の竹島はその対象外)後は、魚や鳥を扱う問屋の仕事を与えられ、ここに「魚座」、今でいう「魚市場」を開設しています。

 

2012年9月15日実施された「まちなか満喫うぉーきんぐ!(下町・寺町探訪編)」に参加した際に撮影した外観写真と比較してみると、近年隣接する一部が解体されたようです。

 

 

特徴的な煙出しは解体を免れたようです。

 

 

それにしても、うまく解体するものですね。解体作業を見たかった。

 

大谷家住宅前の先に、水木しげる夫妻が結婚式を挙げた「灘町後藤」と呼ばれる豪邸がありました。

 

 

残念ながら2013年2月から3月にかけて解体され、現在は2棟のマンションになっています。

 

 

往来沿いの三軒続きの建物。

 

 

聞いた話によれば、真ん中は郵便局、向かって右は銀行だったようです。

 

この並びにあった地元チェーンスーパー丸合旧立町店は解体。

 

 

通り沿いの金物店。

 

 

ややっ!!ウインドウにぶら下がる妖怪ヤカンヅル。

 

 

では、ありません。

 

 

雑然とした雰囲気がよいですね。

 

米子城下町の北に位置する寺町は、小高い砂丘列のところにできた町です。およそ400mの寺町通りに九か寺が東西に並ぶ日本有数のお寺密集地帯。

 

 

地図上、横一文字に並ぶ卍卍卍卍卍卍卍卍卍は壮観。

 

 

九つもならぶお寺が見られるのは、全国でも他に青森県弘前市(禅宗の寺が33か寺密集する禅林街)と石川県金沢市ぐらいだとのこと。

 

九つもここにお寺を集めた理由は、火災発生時に防火壁にするためや、敵が攻めてきた時の防護壁とするためなど諸説あります。

 

この寺町は米子城址から方角的には、一番西の万福寺がほぼ北、一番東の福巌院は東北

つまり艮、鬼門の位置だということから推測してこの寺町は、松江城の東北に位置する枕木山華蔵寺や平安京の東北に位置する比叡山延暦寺と同じように、米子城の鬼門封じといった呪術的な意味合いが込められているのかもしれません。

 

◆参考文献

『米子のふるさと散歩』 「米子ふるさと散歩」編さん委員会 著 米子錦ライオンズクラブ・米子市 発行

『市民が選んだ米子の宝八十八』 よなごの宝88選実行委員会 編集・発行

「米子加茂川地蔵めぐりガイドマップ」 加茂川まつり35周年記念誌編集委員会 編集 加茂川まつり実行委員会 発行
「なつかしの小路と町屋めぐり」 米子まちなか歩こう会 発行

「海を臨む天空の城 国指定史跡 米子城」 米子市教育委員会 編 米子松陰高等学校、同インターアートクラブ 協力 米子東ロータリークラブ 発行

「竹島~日本の領土であることを学ぶ~」【2016(平成28)年改訂版】 島根県、島根県教育委員会、竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議 編・発行

「竹島の日 条例制定10周年記念誌」 島根県・竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議 編・発行