『方丈記』より
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかになひとりふたりなり。朝に死し、夕に生まるるならひ、ただの水の泡にぞ似たりける。
2012年4月、米子市企画部地域政策課主催「まちなかをめぐるモニターツアー」で訪れた瑞仙寺小路の脇で、参加者一同が釘付けになった駒札。
義方小学校跡
明治五年、学制が発布され、翌六年四月一日に義方小学校が開校した。当時は、瑞仙寺および安国寺の本堂を仮校舎にあて、一部の児童を福巌院に集めた。
一方、女児は妙善寺の本堂に集めて、知新小学校と称した。
明治一一年九月二四日、この場所に新校舎が落成すると、義方、知新の二校を合併して新しい義方小学校が誕生した。立派な学校だったので、米子の銀学校・鯱学校と呼ばれた。
校名は初代校長伊吹市太郎が『 春秋左伝』からとって名づけた。
以上、駒札全文転載。
お城の天守のような小学校の屋根には、米子城天守の鯱。異名「鯱学校」の由来。
あれから7年あまり。「第1回米子の十八町を巡る」ひとりアフターツアーで現地に訪れてみると、小学校跡地の町工場が絶賛解体中。
ほぼ定点比較(上:2012年4月もしくは9月・下:2017年6月)。
特長的な塔屋が辛うじて残っていましたが、すべて解体されてしまう模様。
跡地にできるのは、住宅か?あるいは、駐車場か?
あな、諸行無常なり。
◆参考文献
『米子のふるさと散歩』 「米子ふるさと散歩」編さん委員会 著 米子錦ライオンズクラブ・米子市 発行
『市民が選んだ米子の宝八十八』 よなごの宝88選実行委員会 編集・発行
「米子加茂川地蔵めぐりガイドマップ」 加茂川まつり35周年記念誌編集委員会 編集 加茂川まつり実行委員会 発行
「なつかしの小路と町屋めぐり」 米子まちなか歩こう会 発行