江戸初期、一国一城令により破却された天空の城。
虚無感。
頽廃美。
滅びこそ我が喜び。死にゆくものこそこそ美しい。byゾーマ
若桜鬼ヶ城は但馬・播磨と因幡国へと通じる街道の結節点に位置する標高452mの鶴尾山(つるのおやま)の山頂部から丘陵尾根上に郭群を配する巨大山城です。
若桜鬼ヶ城の文献初出は1575(天正三)年で、それ以前に城が築かれていたかどうか定かではありませんが、南北朝期に在地領主矢部氏によって築かれたと考えられています。
城は山腹の遺構と山頂遺構に大別され、山腹遺構は竪堀と堀切が南北の尾根沿いに造られ、小規模な曲輪群が形成されています。山頂遺構は天守台を備えた本丸を中心として、北側に二段、南側に一段、西側に約三段ずつ総石垣の曲輪が築かれ、複雑な構造をしています。
若桜宿より若桜神社の先の二又をまっすぐに三倉川を遡上すれば遠見峠。
ここを左に進み若桜弁財天の前を抜け更に左、あとは道なり。
城山林道の終点にある駐車場が馬場跡。
ここから城跡までは150m。
堀切、土塁を抜けると鹿害対策のため、電気柵が設置されています。入城の際には、ハンドルフックを外してお入りください。日没後に通電されますので、夜間は立入禁止、入ると死にます。
柵の内側に進むと正面にホウヅキ段の石垣。
三の丸行き、南側石垣に沿う犬走りは崩落の危険があるため通行禁止。
二の丸行き、西側石垣に沿う犬走りを抜けた先が搦手門跡。
搦手門跡から三倉集落、遠見峠方面を一望。
本丸西側に築かれた三段石垣。
二の丸。
二の丸北側から八頭町、鳥取市方面を一望。
三の丸広場から直下に見える若桜宿。
若桜駅周辺。
蔵通り、寺通り。
国道29号因幡街道沿いに立地する道の駅若桜桜ん坊。
大手門跡。
そして本丸へ。
本丸南側に張り出した天守台からは眼下右・播磨街道、左・但馬街道が一望できます。
但馬街道の奥には日本の秘境100選、日本二百名山に選ばれている氷ノ山がそびえています。
戦国期には交通の要衝であったことから所有が尼子氏、毛利氏というように取り合いが展開されました。因幡平定に伴い羽柴秀吉が毛利氏在番を追い出し、八木豊信を城主としました。鳥取城落城以降、八木氏に代わって木下重堅が城主に就きましたが、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため大坂にて自刃し、後を山崎家盛とその子家治が城主となります。
1617(元治三)年、池田光政が鳥取城に入ると、山崎氏は備中成羽に転封となり、当城は一国一城令に基づき破却されました。
人で溢れる復元された壮麗な天守を頂く城もよろしいが、人っ子一人居ない「兵どもが夢の跡」を思わせる破城の方が、その雰囲気を独り占めできるからぼかぁ好きだな。
◇データー
名称:若桜鬼ヶ城
所在地:鳥取県八頭郡若桜町若桜大字三倉
城地種類:連郭式山城
築城年代:1200(正治二)年以後
築城主:矢部暉種
主要城主:矢部氏、山中幸盛、八木豊信、木下重堅、山崎家盛、山崎家治
文化財史跡区分:国史跡
アクセス:若桜鉄道若桜駅から自動車で城山林道経由15分、駐車場から天守台まで徒歩15分
◆参考文献
山陰歴史ガイドブック第1巻「山陰の城館跡」【改訂版】 史跡ネットワーク会議 発行
「若桜町の文化財」 若桜町教育委員会 編集・発行
リーフレット「国指定史跡 若桜鬼ヶ城」 若桜町教育委員会 発行