「山中一揆」とは、江戸時代の中期1726(享保一一)年に美作国津山藩領で起こった大規模な農民一揆のことです。山中の範囲は、藩領西部の真島郡(現在の美甘村、新庄村)及び大庭郡(湯原町、八束村)を指し、域内には山中一揆の史跡が点在しており、地域の人たちによって大切に守られています。

 

蒜山の山中一揆史跡、次は「田部義民の墓」。

 

田部義民の墓 2015.04.16

 

大森義民の墓から岡山県道324号東茅部下福田線を進み、同322号福田湯原線に突き当り右折。

 

途上、「茅部」の看板と「亀山乾氏頌徳碑」前の変形四差路を左折。

 

亀山乾氏頌徳碑 2015.04.24
「茅部」看板 2015.04.24
亀山乾氏頌徳碑 2015.04.24

 

ちなみに亀山乾は、頌徳碑を読むと蒜山酪農の父と呼ばれる郷土の偉人だということです。

 

左折後、公益財団法人中国四国酪農大学校の前を抜け、峠を越えた先、左前方に米子自動車道が見えたらその手前、山際の高台に「田部義民の墓」があります。

 

田部義民の墓 2015.04.24
田部義民の墓 2015.04.24
田部義民の墓 2015.04.24
田部義民の墓 2015.04.24
田部義民の墓 2015.04.24

 

ひっそりとした境内に並ぶ墓石。表には地蔵尊、両側面には俗名と戒名が彫られています。しかし、そのほとんどが風化し、苔生しているため判読は困難です。

 

田部義民の墓 2015.04.16
田部義民の墓 2015.04.16
田部義民の墓 2015.04.24

 

その数は20ほどでしょうか。後ろの駒札に由来が記されています。

 

田部義民の墓・駒札 2015.04.16


真庭市指定文化財 歴史資料

 

田部の義民の墓

 

 一七二六年(享保十一)の暮れから翌年にかけて、津山松平藩領で起こった百姓一揆=山中一揆(一揆の主勢力が、現在の真庭郡内の朝日川上流地域を山中地方とよんでいたのでこの名がついた)で、この一揆の指導者の一人である大森の七エ門のもと、過酷な藩政に抵抗して生活を守るために西茅部村を中心に立ち上がった青壮年のなかで、処刑された犠牲者二十人の墓である。当初からこの場所にあったものではなく後にじょじょに集め祀られたものと伝えられている。

 

真庭市教育委員会

 

以上、駒札全文転載。

 

奥の御堂には「新四国八十八ヶ所札所 第六十五番 川上村田部堂」と書かれた札が掲げられていました。

 

田部義民の墓 2015.04.16
田部義民の墓 2015.04.16

 

境内の端から来た道を振り返る。左手に見える山と山の間を抜けてきました。

 

田部義民の墓 2015.04.24

 

すぐ脇を流れる川は田部川。岡山三大河川にして最大の流域面積(1,810平方キロメートル)を誇る旭川(延長142km)の水系のひとつです。なお、旧川上村内の朝鍋鷲ヶ山付近が旭川の源流です。以前、入口まで訪れた川上地蔵がそれです。

 

川上地蔵尊・旭川源流 2014.10.30
川上地蔵尊・旭川源流 2014.10.30

 

なお、田部集落に隣接して「大蛇」と呼ばれる集落があります。この近隣では幾本もの川が旭川に合流しています。その姿は八岐大蛇を彷彿させます。多くの水系が合流するこの周辺で、過去に洪水で大きな被害が発生したことから暴れ川を「大蛇」に例えたのでしょう。

 

少し話が戻りますが、岡山県道324号東茅部下福田線から同322号福田湯原線に突き当り右折してここまで来ました。そこで左折すると湯原ダムの天端(てんば)を通り、国道313号(美作街道)へと至ります。

 

湯原ダム 2015.04.24
湯原ダム 2015.04.24
湯原ダム 2015.04.24
湯原ダム 2015.04.24

 

なお、9時から17時までの間、湯原ダム管理事務所で「ダムカード」が貰えます(一人一枚)。

 

湯原ダム管理事務所・ダムカード 2015.04.16

 

4月に訪れた「美作桜紀行」の番外編「山中一揆の史跡をめぐる日帰りドライブ」。次回、最終回「社田(こそだ)義民の墓」です。おたのしみ。