「山中一揆」とは、江戸時代の中期1726(享保一一)年に美作国津山藩領で起こった大規模な農民一揆のことです。山中の範囲は、藩領西部の真島郡(現在の美甘村、新庄村)及び大庭郡(湯原町、八束村)を指し、域内には山中一揆の史跡が点在しており、地域の人たちによって大切に守られています。

 

米子自動車道湯原インターチェンジから国道313号(美作街道)経由で中国勝山方面に約5分。

 

義民の丘 2015.04.24
義民の丘 2015.04.24
義民の丘 2015.04.24
義民の丘 2015.04.24
義民の丘 2015.04.24

 

義民の丘には「山中一揆 義民之碑」があり、その隣には処刑された51名の慰霊碑があります。

 

義民の丘 2015.04.24
義民の丘・義民之碑 2015.04.24
義民の丘・義民之碑・慰霊碑 2015.04.24

 

義民堂の中には自然石の墓標が祀られています。

 

義民の丘 2015.04.24
義民の丘 2015.04.16

 

後ろには、山中一揆の解説板があります。

 

義民の丘 2015.04.24

 

山中一揆

 

 今から二百五十数年前の享保十一年の秋から翌年にかけて、時の津山藩の苛斂誅求と圧政に耐えかねて、農民の生命と生活を護るため、藩全域の農民によって繰り広げられた一揆を山中一揆といいます。

 山中というのは、現在の真庭郡のこのあたり湯原町を中心とした旭川の上流地域のことです。この一揆がこの地方の名をとって山中一揆といわれるのは、先頭に立って指導的な役割を果たしたのが、山中の農民であり、藩が一揆を鎮圧するために集中的に山中に軍勢を投入したからです。

 山中一揆は幕藩制解体初期の全藩的一揆の代表的なものです。

 この一揆の指導者は、牧の徳右衛門、見尾の弥次郎たちで、久世の大旦芝に四千人ともいわれる農民を集結させ、藩の代官との数日間に及ぶ交渉の中で、年貢は一部免除、四歩加免の免除、村役人の罷免などを藩側に認めさせました。

 しかし、やがて藩は武力鎮圧にふみきり強大な戦力をもって山中に進入しました。指導者を始め参加者の主要な者は打ち首などの死罪になり、五十一名もの多くの犠牲者を出しました。

 この義民の丘は柿の木坂といわれ徳右衛門が捕らえられたところであり、前の旭川の河原では五十一名の犠牲者中二十五名の真っ赤な血が流されました。

 

昭和六十年五月 山中一揆義民顕彰会

 

以上、案内板全文転載。

 

処刑された義民たちの命日にあたる5月3日には毎年、徳右衛門が捕らえられた柿の木坂(義民の丘)で、護摩を焚いて供養する「山中一揆 義民祭」が開かれます。

 

なお、二十五名に義民たちが打首となった土居河原の場所は分かりませんでした。

 

旭川・土居河原 2015.04.16
旭川・土居河原 2015.04.16

 

旭川に架かる鶴橋から下流方面にそれと疑われる場所が何カ所かありますが、案内等もないため不明です。もしかすると、川の増水や改良工事で消滅している可能性もあります。