「山中一揆」とは、江戸時代の中期1726(享保一一)年に美作国津山藩領で起こった大規模な農民一揆のことです。山中の範囲は、藩領西部の真島郡(現在の美甘村、新庄村)及び大庭郡(湯原町、八束村)を指し、域内には山中一揆の史跡が点在しており、地域の人たちによって大切に守られています。
出雲街道・新庄宿のがいせん通り(新庄村道町中線)をまっすぐ南進、もしくは新庄川に沿って下流へと進んだ宿場の外れ。
新庄川右岸、桜の木の下、石燈籠のある辺りが「今井河原刑場跡」です。
今井橋の袂です。
今井河原刑場跡
戦国時代には浦山城主の池田孫三郎が捕らえられて、ここの河原で磔にされたということです。また、享保十一年(一七二六年)には、山中(真庭郡北部地)一揆があり、総大将格の徳右衛門もやってきて、集まった二千人の農民に一揆の指揮をしています。やがて、一揆は鎮圧され、享保十二年正月十二日に今井河原では、五人が処刑されているのです。新庄の「旧太朗」「与三兵衛」「六八」という人と美甘村田口の人、二人が斬首刑にされたのです。
新庄村教育委員会
以上、駒札より全文転載
山中一揆とは無関係ですが、刑場跡近く、新庄村道町中線沿いの畑の中には「六十六部回國碑」があります。
六十六部とは、「法華経」を六十六回写経し、その一部ずつ六十六ヶ所の霊場に納めて歩いた回国聖(巡礼者)のことで、この碑はそれらの霊を慰めるために建立された供養塔です。