JR長浜駅前に立つ、秀吉と三成の出逢いの情景「三献の茶」を表したブロンズ像。

 

豊臣秀吉・石田三成出会いの像 2009.06.25


秀吉公と石田三成公 出逢いの像

 

 長浜城主の羽柴j秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。

 三成公は、ここから五キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官命に因んだ治部という小字が残っています。

 また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。

昭和五十九年(一九八四)

 

以上、駒札より全文転載

 

その舞台となったのが、JR長浜駅からおよそ8km東の米原市朝日町にある古刹「観音寺」です。

 

近江・観音寺 2009.06.25
近江・観音寺 2009.06.25
近江・観音寺 2009.06.25
近江・観音寺 2009.06.25

 

観音寺の、山号は伊富貴山観音護国寺。仁寿年間(851-854年)に創建された天台宗の古刹です。創建時は法相宗で、弥高・大平寺・長尾寺の三ヶ寺と共に伊吹山四大護国寺の一つとして伊吹山中にありました。鎌倉中期の正元年間(1259-1260)に現在地に移転、改宗したとされます。

 

その敷地内にひっそりと佇む「石田三成 水汲みの井戸」。

 

石田三成・三献茶の井戸 2009.06.25

 

石田三成 水汲みの井戸

 

 三成が秀吉に仕えた頃の武将感謝記に、「石田三成はある寺の童子也。秀吉一日放鷹に出て喉乾く。其の寺に至りて誰かある茶を点じて来れと所望せり。石田、大なる茶碗に七、八分ぬるくたてて持ちまいる。秀吉之を飲み舌を鳴らし、気味よし今一服とあれば、またたてて之を捧ぐ。前よりは少し熱くして茶碗半ばに足らず。秀吉は之を飲み、また誠に一服とある時、石田此の度は小茶碗に少し許りなるほど熱くたてて出る。秀吉之を飲む。その気はたらきに感じ住持に乞い、近侍に使う才あり。次第に取立て奉行職を授けられぬ」と記されている。絵本太閤記では、その寺を大原の観音寺としている。

 

以上、案内看板より全文転載

 

若くして秀吉に召し抱えられた三成は、兵站業務などに優れた手腕を発揮しました。その本領は武断よりも文治の分野にあり、豊臣政権では行政・検地・諸大名との折衝に辣腕を振るい、奉行の筆頭と目されるようになりました。また、秀吉が寵愛する淀君と昵懇になり、発言権を増します。のちに朝鮮出兵などに際して黒田長政ら武断派と反目。それは秀吉の死後、決定的となります。さらに権勢を増す家康とも対抗。美濃・関ヶ原で天下分け目の大戦に挑むも敗れ、京・六条河原に於いて斬首されました。劇中では陰険で嫌味なエリート官僚として描かれています。また、刎頚の友である盟友の大谷刑部からも横柄で傲慢、人望がないと忠告されたとも伝わります。しかし、三成は善政を敷き領民に慕われていたと云われており、本当の人物像がどうであったのかはわかりません。

 

歴史は勝者によって創られるもので、史実が事実ではないといわれます。現代に於いてもそうですが、為政者(支配者)が恐れるのは庶民の人気。1615(元和元)年、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、天下を手中に収めた家康は、真っ先に京都・阿弥陀ヶ峰にあった秀吉の墓所を破壊させました。さらに山へと通じる道をすべて壊し、今熊野にあった新日吉神宮(いまひえじんぐう)を参道の中央へ移して、何人も墓参できないように封鎖してしまいました。おそらく家康は、庶民に人気のあった秀吉が死してなお、人々の心に生き続け、政権転覆に利用されることを恐れたのでしょう。

 

秀吉の居城であった長浜城(長浜歴史博物館)は、駅から西へ徒歩7分、琵琶湖沿いにあります。

 

長浜城 2009.06.25


駅の東側には、「北國街道」が南北に走っています。

 

北國街道 2009..06.25


北國街道長浜宿の北の玄関口に当たるのが、伊勢大神宮を祀る郡上太神宮。この石灯籠の灯は、街道を行き交う旅人達の目印とされていました。

 

長浜宿の南にある馬つなぎ石。

 

國道・馬つなぎ石 2010.04.10

 

駒札によると、天正年間(1573-1579年)から明治一二(1879)年までは「下舟町(しもふなまち)」と呼ばれており、船持ちや船乗りが多く住んでいたことに由来するといいます。秀吉の城下町造営により成立した町です。防水性に優れる舟板が住宅の外壁腰板に再利用されています。馬つなぎ石は、JR長浜駅のすぐ南を東西に走る明治ステーション通りを東進、米川に架かる朝日橋を渡った先、北國街道との交差点にあります。

 

◆施設概要

名称 観音寺(伊富貴山観音護国寺)

所在地 滋賀県米原市朝日1342

TEL 0749-55-1340

アクセス JR北陸本線・長浜駅から約8km。

■車 北陸自動車道長浜IC流出10分。

■公共交通機関 JR長浜駅より湖国バス近江長岡駅行「観音寺」下車徒歩5分。

●国指定重要文化財 木造伝教大師座像・本堂・鐘楼・惣門

●県指定文化財 観音寺文書

●町指定文化財 絹本箸色浄土大曼荼羅図・木造千手観音立像