米子市中心市街地からイオン米子駅前店3階「ガイナックスシアター」を含む米子駅前エリアなどを主会場として、昨日1日(土)から昨日まで開催された「第四次米子映画事変」。
最終日、幕開け前の早朝「軽」登山!!
赤井孝美と行く 米子城山ツアー
「明治維新で城が壊されて、風呂の焚きつけにされた」地元の人に米子城のことを聞くと、すぐに出てくるこのエピソード。でも米子城、そして城山にはまだまだたくさんのエピソードがあります。そんな話を聞きつつあなたが歩く登山道は、400年前、米子の侍が歩いた道なのです・・・
案内人:赤井孝美[プロデューサー、イラストレーター、ゲーム「プリンセスメーカー」シリーズ監督、「大特撮巨編ネギマン」の監督である一方、歴史や城郭への造詣も深い。]
同行者:Chelip(ちぇりっぷ)[鳥取県西部発、直感天才型の麻友(まゆ)と感性努力型の美音(みおん)の「ふたりでひとつ」なアイドルユニット。]
以上、「第四次米子映画事変」フライヤーより一部転載。
集合場所は、イオン米子駅前店の正面玄関。
周辺の街路樹が赤や黄色に色づいて見ごろを迎えています。
朝8時30分出発!!国道9号へ向かって北上。
総勢30名強、早朝の民族大移動。目立つ×2(笑)
足元に鉢植え!?
石材店のウインドウ、顔に穴!?
タイトル「顔ハメを撮る人」
先ごろ外壁の美装化を終え、新装オープンした大丸京都店のような外観の左手に見える高い建物は、米子全日空ホテル。
ランチ及びディナーのバイキングが好評です。
この先が国道9号「久米町」交差点。
左手(安来・松江方面)を見上げると・・・
ラクダのコブのように二つ並んだ山。左が飯山(いいのやま)、右が湊山(みなとやま)。どちらも米子城です。応仁の乱から間もない1470年頃、飯山に城(砦)の存在が確認されており、その頃が米子城のはじまりだと考えられます。湊山に天守閣が築かれた後には出丸として改修され、「東の丸」あるいは「采女丸」と呼ばれたようです。
飯山と湊山の間を貫通する国道9号を行く!!
銀杏を踏んで大惨事!!しかも、わざと・・・(汗)
国道9号から見下ろす米子城の枡形。
国道9号から枡形前に移動。9号から下に降りる石段が急!!とにかく急!!
城攻めし難い構造です(ウソ)
枡形前で赤井氏のウンチクに聞き入る参加者の図。
現在は石垣が残るだけですが、米子城は標高90mの湊山の頂に築かれた四重櫓(小天守)と四重天守(大天守)の二つの天守を持っていました。
右に大天守、左に小天守がありました。
1591(天正一九)年に城主となった吉川広家(きっかわひろいえ)が建てたものだといわれるのが小天守。独立式望楼型三重四階の大型櫓で、古天守や副天守と呼ばれます。毛利方の武将であった広家は、1600年(慶長四)年の関ヶ原の戦いの結果、岩国へと転封されます。
関ヶ原の戦いで東軍徳川方に加わった豊臣秀吉の三中老の中村一氏(なかむらかずうじ)は、その論功により嫡子一忠(かずただ)が伯耆一国17万5千石を拝受します。
1601(慶長五)年、初代米子藩主となった一忠と家康より後見役及び執政家老として派遣された横田内膳村詮によって完成したのが大天守。独立式望楼型4重5階で、高さは21メートルあったと考えられています。
10年ほどの間に築かれた二つの天守を持つ米子城。その間、天下の情勢は大転換しました。それに伴い城造りも大転換が図られました。
小天守を築いた吉川広家は、毛利方の武将。毛利は強大な水軍を編成していたことから、城の正面を中海側と定め城造りをしました。
このため城の西側、深浦に毛利水軍の軍港が設けられていたと考えられています。
大天守を築いた徳川方の横田内膳は、藩内各地から民衆を集落ごと移住させ、米子十八町と云われる職業別、集落別の居住地を構築し城下町を建設し、市街地側を正面としました。
秀頼や淀君が大坂城に残ってはいますが、関ヶ原の戦いにより一応、平和な時代が訪れました。その後に整備された米子城は、戦に備えることが主目的ではなかったと考えられます。
平屋の建物しかなかった米子の町から見上げる湊山の頂上に建設された21mの大天守は、米子の町人たちに強烈なインパクトを与えるものだったものと想像できます。