歴史雑誌「歴史人」4月号の特集「決定!戦国の城最強ランキング」で安来市広瀬町富田の月山富田城が天然の要害を利用した難攻不落の「天空の城」と評価され、戦国時代の山城堅城ナンバーワンに選ばれています。
富田城は標高197メートルに月山の頂上を本丸とした山城で、居城とした尼子氏は、地形を巧みに利用して大小様々な曲輪を築き、中国地方に一大勢力を誇りました。毛利氏の攻撃を受けましたが、武力による攻撃をしのぎ切り、1年半にわたって籠城するも毛利の兵糧攻めにより1566年落城しました。
特集を担当した歴史評論家の外川淳さんは富田城について、近くを流れる飯梨川を天然の堀に利用した城の巨大さや侵略を妨げる複雑な登山ルート、曲輪の多さを高く評価しています。
落城した城が堅城ナンバーワンという点に疑問を抱く方もいらっしゃるでしょうが、武力では攻め落とすことができなかったことから、防御機能の高さが揺るぐものではないとしています。山の山頂を中心とした尾根や谷など、しぜんの地形を利用して造られた城を『山城』といいます。このような複雑な地形を自然の要害として造られた富田城は、戦国時代攻めるのが最も難しい城として有名でした。
史跡 富田城
富田城跡は、急峻な山である月山を中心とし、周囲の丘陵上にも曲輪や石垣、堀切、土塁などの防御施設を配した大規模な城郭跡です。戦国期には、尼子氏の居城として繁栄を極め、その後は、毛利氏、吉川氏、堀尾氏と城主が交代し、慶長十六年(1611)に堀尾氏が松江城を築きそこに移ったため、その後廃城となりました。富田城は、歴代城主により幾度も改修工事が行われたとみられ、様々な時期の遺構が混在しています。昭和九年(1934)には、その歴史的価値が認められ、国の史跡に指定されました。
以上、由来書き看板転載
麓から登りはじめましたが、難攻不落と名高い山城。実に攻め辛い。まず目指したのは中間地点のココ。
月山中腹に残る大石垣が「兵どもが夢の跡」を感じさせます。
ここは大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平(さんちゅうごてんなり)の入口に位置します。
現在は崩落してしまい跡形もありませんが、高さ5メートル、幅15メートルの大手門があり、押し寄せる敵を押し返したと伝わります。
大手門石垣の左奥には軍用大井戸が残っています。
径2m、深さ3mで現在も水が湧いています。
大手門跡を上ると山中御殿平があり、西側には菅谷口、櫓跡などがあります。
ここにも井戸があり、今でも水を湛えています。
およそ6000平方メートルにもおよぶ広大な山中御殿平は、冒頭で中腹にあると述べたように、意外と高い場所にあります。
ここに至る登り口が何ヶ所かあるうえに縄張りが広いため、麓からまずここにたどり着くまでに多大な困難を被ります。難攻不落の山城といわれるだけのことはあります。心して登られよ。
左に見える月山の頂上に本丸があります。本丸への道のりはさらに多大な辛苦が待ち受けています。
山中御殿平の石垣(復元)ご覧いただこう。
おわかりいただけただろうか?
少し視点を左に移動してみよう。
これでおわかりいただけただろう。
山頂の本丸へと続く七曲につながる階段が隠されているのです。
この石段を登った先が地獄の一丁目への入口ではなく、本丸へと続く七曲の入口。
ここから頂上まで二〇分らしい・・・
フッ、楽勝!?