県庁所在地の鳥取市には、古い町並みや建物の姿を見かけません。

 

新築を尊び安易な解体や改築に走り、文化や芸術面の表面ばかりを追いかける気質があるようにも見受けられますが、そうではありません。これは二度にわたる大きな災害に見舞われているからです。

 

ひとつめは、第二次世界大戦の最中である1943(昭和一八)年9月10日の夕刻発生した、M7.2の直下型地震、のちに言う「鳥取地震」です。この地震で、鳥取市は震度6の激しい揺れに襲われて中心部は壊滅し、古い町並みが失われてしまったからです。全壊率は80%を超え、木造家屋のほぼすべてが倒壊した一方で、鉄筋コンクリートの建物で持ちこたえて今に残るものもあります。

 

夕食の準備時間帯だったことが災いして、地震後、市内16ヶ所から出火。水道管が破裂するという悪条件下でしたが、関東大震災の後であったことに加え、戦時下であったために住民の防火訓練が徹底されていた結果、バケツリレーにより大火にはならなかったが、それでも251戸が焼失している。死者は854人にのぼっています。

 

ふたつめは、敗戦と震災からようやく復興なった1952(昭和二七)年4月17日の15時前に発生した大火災、のちに言う「鳥取大火」です。鳥取駅前で出た火は、フェーン現象による南から吹く15mの強風と湿度28%という乾燥状態が重なり、またたく間に付近の商店街や民家に飛び火し、市街地を北へと扇状に延焼。鳥取城の外堀の役目を果たしていた袋川を越え、県庁や市役所などの官庁や学校、住宅をも焼きつくし、市の最北端の寺まで炎上。さらには山林にまで火が及んで隣村の境界辺りまで飛び火しています。

 

鳥取市のほぼ全てを焼きつくし鎮火したのは、出火から12時間後の翌18日午前3時。延焼は鳥取市街最南端から最北端までの6kmにも及びました。

 

その被害は甚大で、罹災者20,451人、死者2人、罹災家屋5,288戸、罹災面積160ヘクタールにも及び、被害は当時の金額193億円にのぼった。当時の人口や世帯数から換算すると、市民の3人に1人、2軒に1軒が罹災したことになります。

 

この戦後国内最大級の火災を受け、翌5月には国会で「耐火建築促進法」が可決されています。

 

当時の鳥取市街地は、旧城下町の名残で道幅が狭く、それが消防活動の妨げの一因ともされました。同年8月には、同法に基づく防火建築帯の指定を受け、火災後の都市計画では街路拡張なども行われています。

 

市内智頭街道沿いに立つ、クラシカルな佇まいの五臓圓ビル


五臓圓ビル 2012.08.28

 

この五臓圓ビルは、二度の大災害を乗り越えましたが、老朽階による解体の危機に瀕します。


五臓圓ビル 2012.08.28

 

しかし、街の記憶を遺そうという人たちの協力により、その危機を乗り越え、現在は街のランドマークとして活用されています。

五臓圓ビル 2012.08.28

 

外観は美装化が図られ、些か綺麗すぎるような気もしますが、この階段のウネウネは竣工当時のまま。


五臓圓ビル 2012.08.28

 

頬ずりしたくなるほどステキ(笑)でも、してはダメです!!

 

災害の記憶

昭和6年、当時とっとりいちばんの繁華街の交差点に、個人建築としては初めての鉄筋コンクリート3階建ての建築が完成した。江戸時代よりこの地で、滋養強壮薬「三心五臓圓」を中心に和漢薬種商を営み続けてきた森下家の先代が、ちょうど旧県立図書館の工事と同じ時期に、同じ工務店に建てさせたものだ。外観は「近世復興式」とし、当時流行のスクラッチタイルを貼り、開口部にはステンドグラス、腰にはイタリア産大理石を貼るという贅を尽くしたモダン建築だった。完成当時、3階は市内一の高級洋食堂であった。

昭和18年の鳥取大震災でもびくともせず、鉄筋コンクリートの耐震性に市民は驚いた。また昭和27年の鳥取大火では内部は全焼したが、焦土にそびえ立つ五臓圓の建物の姿は、市民の目に焼きつけられた。幸いにして強度に問題がないことがわかり、外部はかつての姿に改修を施し、再びよみがえることになった。五臓圓ビルは大地震、大火災という災害の記憶のランドマークとして今も市民に語りつがれている。

 

所在地 鳥取市二階町2丁目207

建設年 昭和6年

構  造 RC造3階建

 

以上、『とっとり建築探訪 県民の建物百選』より転載

 

「県民の建物100選」に選ばれています。


五臓圓ビル 2012.08.28

 

ビルに張り付いている文字は新字体の「五臓円」になっていましたが、正式には旧字体の「五臓圓」なのだね。

 

◇参考文献

『とっとり建築探訪 県民の建物百選』 社団法人鳥取県建築士会 発行