米子駅から境港方面へまっすぐ北上、10分ほどで左手にお椀を逆さまにしたような小山が見えます。最初は古墳かなにかだと思っていました。

 

粟嶋神社 2014.01.07

ここが国造りの舞台のひとつとされる粟嶋です。

 

記紀神話や各国風土記に記述のある、大国主命の国造りに協力していた少名毘古那神が、粟の茎で遊んでいて弾かれ、常世国へと飛んでいってしまったとされる場所です。

蟇蛙(ヒキガエル)と案山子(かかし)と八百比丘尼(やおびくに)【たにぐく】

子供のころ、境港から自転車でよく遊びに行っていた人の証言では、ここで「妖精を見た!!」ということです。・・・確かに妖精が居たとしてもなんの不思議もない雰囲気です。

 

また、人によっては、ぞぞっとするぞぞぞゾーンだということです。よくよく考えてみると少彦毘古那神常世国、つまりあの世へと渡られた場所なので、言い換えれば死者の国への入口であるともいえます。

 

鳥居をくぐった右手にある「国指定中海鳥獣保護区~ラムサール条約湿地~」の看板で、広域の区域図が確認できます。そのとなりの「粟嶋神社の自然と伝説」の看板で「粟嶋神社」の見どころなどの配置図も確認できます。

 

粟島神社の自然と伝説

 

観光

 粟島神社は標高36mの小山です。かつては中海に浮かぶ小島でしたが、江戸時代中期、周辺の新田開発のため干拓され、地 続きとなりました。山全体がご神体とされ、神殿は麓にあったといわれています。現在は、187段の登りきった山頂に、銅葺きの堂々とした社殿があり、少彦 名命が祀られています。

 社叢となっているこの山の植生は、スダジイ、タブのキ、モチノキなどの高木、ヤブツバキ、カクレミ ノ、ネズミモチなどの中低木と樹種に富んでいます。中海側の斜面にみられるツツジ科のシャンシャンボは数多く群生し、うっそうとした独特の景観をつくりだ しています。林床にはツワブキ、ベニシダ、テイカカヅラなどの下草が群生しています。この地方では数少ない天然の照葉樹林です。

 粟嶋神社に隣接した彦名干拓地は、日本有数の野鳥生息地です。コハクチョウの集団越冬地の世界最南限地であり、絶滅の可能性のあるものも含め、多くの珍しい野鳥の宝庫となっています。

 中海も含めた粟嶋の風景の美しさは今も昔も変わりません。江戸時代文政年間にうたわれた米子八景のなかで、粟嶋は、「粟嶋秋月」として、「うき雲をはらひし風をあは島のしまにのこして月ぞすみける」と読まれています。

粟嶋神社社叢(県指定天然記念物 昭和57年4月9日指定)

粟嶋(市指定名勝 昭和52年4月1日指定)

 

「米子」の地名発祥伝承の地

 昔、粟嶋村に住む長者には、長い間子供がいませんでした。88歳になったとき初めて子供を授かり、その子孫はたいそう繁栄したといいます。そこで縁起のいい「八十八の子」にちなんで「米子」の地名がついたという言い伝えがあります。

 

八百比丘尼の伝説

 山麓の西側に「静の岩屋」とよばれる洞窟があります。むかし、このあたりの猟師(ママ)の集まりで出た珍しい肉を、一人の娘が食べてしまいました。それは不老不死になるといわれた人魚の肉でした。年をとらなくなってしまった娘は世をはかなみ、尼さんとなって800歳で亡くなるまで、この洞窟の中ですごしたという話が伝わっています。

米子市

 

以上、案内看板転載

 

鳥居をくぐった先、右手に鎮座する石の大燈籠は、1849(嘉永二)年に建立されたものです。

 

粟嶋神社・大燈籠 2014.01.07

石段手前、左手の社務所横にも由来書きがあります。

 

粟嶋神社 米子市彦名町一四〇五番地

 

御祭神 少彦名命(大己貴命・神功皇后)

 

御由緒

当 神社の創建年代は不明だが、古代より神の宿る山(神奈備)としての信仰があり、神功皇后、後醍醐天皇御祈願の伝承、尼子氏の寄進、米子城主代々の崇敬等も 記録に残る、長い伝承と歴史をもった社である。山頂の御社殿は昭和十一年十二月再建のものであり、総台湾桧造りで屋根は銅葺き、弓浜地方一随一を誇る。

御 祭神の少彦名命は、神代の昔、大己貴命(大国主命)と共にこの国をひらき、人々に医療の法を教え、禁厭の術を授け、万病よりお祓いになった神であり、その 尊い御神徳は古事記、日本書紀に記されている通りである。後に常世の国に御渡りになったその最後の地がこの粟嶋である。

 

御神徳

少彦名命は、難病苦難をお救いになる祖神様であり、殊に夫人の病気平癒、延命長寿、安産、子授け、交通安全等の祈願が多く、氏子はもとより古来広範囲にわたる庶民の篤き崇敬を集めている。

 

御祭日

春例大祭 四月十二日  夏祭 旧六月十一日  秋祭 十月十二日

 

風土記の里 粟嶋

 

沿革

粟嶋は、伯耆風土記逸文によると、少彦名命が粟の穂にはじかれて常世国に渡られたので粟嶋と名づけたとある。

江戸時代中頃までは中海に浮かぶ小島であったが、江戸時代末期に埋め立てられて陸続きとなった。一の鳥居のあるあたりが、昔の海岸線であり「三文渡し」の舟着き場があった。

海抜三十八米、百八十七段の石段を登れば四方の眺望はまさに絶景、特に南側、本殿裏の小路を下って展望台に立てば、東の伯耆富士大山、米子平野から西の安来 十神山に至るなだらかな稜線に囲まれた水路はまるで瀬戸内の景観を思はせ、錦海八景の内「粟嶋の秋月」として知られている。シイやコガの古木がうっそうと 茂るこの社叢の植物分布は、この地方でも珍らしく多種にわたっており、昭和五十三年米子市の名勝に、又昭和五十六年、県の天然記念物にそれぞれ指定されて いる。

境内を右に廻った所に「お岩さん」とよばれる古代神まつりの場があり西側の山麓には、その昔、人魚の肉を食べて八百歳まで長生きしたという「八百比丘尼」の伝説の洞窟「静の岩屋」がある。

 

伯耆国風土記逸文 粟嶋

 

伯耆国(ははきのくに)風土記に曰はく、相見(あふみ)の郡(こほり)、郡家(こほりのみやけ)の西北(いぬゐのかた)に餘戸(あまりべ)の里あり、粟嶋有り、少日子命(すくなひこのみこと)、粟(あは)を蒔きたまひしに、莠實(みのり)て離々(ほた)りき、即ち粟に載りて常世の国に弾かれ渡りましき、故(かれ)、粟嶋と云ふ。    (釈日本紀 巻七)

 

以上、由来書看板転載

 

1891(明治二十四)年に完成の来待石を用いた一八七の石段

 

粟嶋神社 2014.01.07
粟嶋神社 2014.01.07

なかなか手ごわい石段ですが、休み休み登ればたいしたことはありません。足元が濡れていたりすると滑りやすいので、真ん中の手すりにお掴まりください。

石段の途中で少し左に逸れると大山王子製紙米子工場などが見えます。

 

粟嶋神社―大山・王子製紙 2014.01.07

木が茂っていて見晴らしはあまりよくありませんが、石段の途中からも見える場所があります。

 

粟嶋神社―大山 2014.01.07

ゴール間近、左手に「荒神社蝮蛇神祠」というなにやら物騒な木柱。
 
粟嶋神社・荒神社蝮蛇神祠 2014.01.07

ここを左に入るとマムシの巣窟?あるいは毒蝮三太夫邸?

何やら出そうな雰囲気の細い道を進んでゆくと、左に古い祠、右に新しい祠が坐しました。右の新しい祠の正面左右には、万両の木が植栽されています。

 

粟嶋神社・荒神社蝮蛇神祠 2014.01.07

この祠が「荒神社蝮蛇神祠」でしょう。

 

粟嶋山上に社殿が建立されたのは、江戸初期の1690(元禄三)年ですが、1922(大正一一)年12月20日に火災で焼失したため、現在の社殿は1932(昭和七)年に再建されたものです。

 

粟嶋神社・社殿 2014.01.07


粟嶋の標高は38m、ビルの10~12階に相当する高さです。現在でも周辺で一番高い建物であるため、落雷を避けるため、御本殿の屋根には避雷針が取り付けられています。

 

拝殿前の境内は周囲を鬱蒼とした樹木に覆われ、あまり見通しがよいとはいえません。拝殿脇から奥へと続く道があります。その先に見えるのは常世の国なのか!?

 

次回、おたのしみに。