もういくつ寝ると、来年!!
・・・1月が来れば思い出す。
万城目淳さん原作のテレビドラマ『鹿男 あをによし』
そのロケ地探訪を兼ねて、水木しげる原作の『怪奇死人帳』に描かれている巨石を探訪する旅に出かけたのは、5年半も前の話です。
『怪奇死人帳』の序盤のあらすじ
旗本の次男坊で昼行燈の十次郎が、偶然に古本のワゴンセールで手に入れた分厚い本。表紙が鉄で出来ていて、厳重に錠がかかった『死人帳』。それは、人間が死後、死神より渡されるあの世への手引書。その本の発行所の住所が「丸田町上ル南入ル亀石」。翌日、「亀石」を訪ねて行く十次郎。茶店の女将からの忠告によると、亀石のあたりは「死神が出入りするとかで昔から草木が育たないところ」「亀石はふまずの石といって、昔から近寄ってはならぬとされている」「亀石を踏んだ者は気が狂うか、いずこかへ消えてなくなるかの二つ」とされています。あなおそろしや………
昼なお暗く、うら寂しい森の奥に立つ無数の石像
突き当たりで石像に囲まれて鎮座する巨大な亀石
なんとも神秘的な絵面ですが、その構造物はどこかで見覚えのある・・・!!
そうだ、明日香に行こう!!
幼少期より、秋田県の大湯環状列石や長野県下諏訪の万治の石仏、岐阜県中津川の鮒岩、海外に目を向けるとイースター島のモアイだのオルメカの巨石人頭像など、イギリスのストーンサークルなどの巨石モノに心惹かれておりましたワタクシにとって、奈良県明日香村は想像以上にオモチロかった♪
近鉄・大阪難波駅から特急・急行を乗り継いで約1時間
近鉄・飛鳥駅到着!!
ドラマ『鹿男 あをによし』第4話で、小川先生(玉木宏)と藤原先生(綾瀬はるか)が下り立った近鉄・飛鳥駅(劇中では、向かって右手の白い自販機が葦簾で目隠しされています)。
なにもないねー(小川先生談)
これでも七世紀あたりは、日本の中枢だった場所で、大化の改新の最寄駅がココです(藤原先生談)
駅前のレンタサイクルを借りてスタート!!
国道169号を渡ってひとつめ道を左、飛鳥周遊歩道に入り、そのまままっすぐ突き当たりまで進みます。
すると、濠に守られた古墳に到着。
欽明天皇陵(きんめいてんのうりょう)
陵名(みささぎ)は檜隈阪合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)。全長約140m、後苑部径72m、前方部107mで、墳丘は3段築成で周濠を持ち、明日香村内では唯一前方後円墳である。
『日本書紀』によれば、欽明天皇は32年(571年)4月になくなり、9月に檜隈阪合陵に埋葬されたとある。欽明天皇の妃で推古天皇の母、堅鹽媛(きたしひめ)を推古20年(612)に合葬し、28年(620)10月には砂礫を檜隈陵(ひのくまのみささぎ)の上に葺き、土を積み立て山を成し、氏ごとに大柱を土の山の上に建てさせるという記事が見える。
明日香村
以上、解説案内看板転載
濠端の猿の案内看板に従って、陵の西に佇む小さな森を回りこむと・・・!!
石柱に囲まれた森の正面に鳥居
吉備姫王墓(きびひめみこのはか)
墓名を檜隈墓(ひくまのはか)と称する。孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母にあたり、『日本書紀』によれば吉備姫王(吉備嶋皇祖母命・きびしまのすめみおやのみこと)は皇極天皇2年になくなり檀弓丘(まゆみおか)に葬られたとある。また、『延喜式』諸陵寮(しょりょうりょう)には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていることから、現在地に指定されている。
墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南側の字(あざ)イケダの水田から掘り出された石造物4体があり、猿石と称されている。
明日香村
以上、解説案内看板転載
拝所門扉の間から見えるのは・・・
おお―――――♪
猿石
合わせて四体うち三体は、背面にも顔がある、いはゆる二面石です。
近隣の橘寺に鎮座する二面石との関連性も考えられます。
また、高取城に続く登山道の途中にも、一体の猿石が置かれており、関連性が指摘されています。
さらに、高取町の観覚寺境内にある顔石と呼ばれる人頭石は、猿石と一緒に掘り出されたと伝わっています。
陵墓を背にして、飛鳥周遊歩道を左に400mほど進むと、左正面に特異な石の構造物が見えてきます。
鬼の雪隠(せっちん)
さらに、右手高台に平べったい石の構造物も見られます。
鬼の俎(まないた)
どうやらこの構造物はワンセットで、元は古墳の石室だった考えられ、俎は底石で、その上に雪隠、つまり石室が乗り、盛土がされていたとされます。
再び軽快に!?ペダルを漕ぎ進め約600m、長閑な田畑の間を貫く飛鳥周遊歩道の脇、それは突然姿を見せました!!
長さ4m×幅2m×高さ2m、重さ40トンの花崗岩の巨石です。
顔!?だけ見ると蛙のようにも見えますが、横から見ると亀のように見える!?
亀石の一角は、ポケットパークのように整備されており、亀石の上に子どもたちが乗って遊んでおりました。
亀石の顔に目をやると、楽しそうに微笑んで見えたのは、気のせいなのだろうか?
手前の案内看板に、亀石の因んだ伝説が記されています。
亀石
亀石と呼ばれる石造物は、いつ何の目的で作られたのか明らかでないが、川原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石ではないかという説がある。
伝説
むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こった。長いけんかのすえ、湖の水を当麻にとられてしまった。湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうである。
今、亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという。
明日香村
飛鳥保存財団
以上、解説案内看板転載
明日香ののどかな田園風景の中に佇む亀石は、『怪奇死人帳』に描かれているような陰気さはなく、「踏んではならぬ」どころか、その背に乗った子どもたちの嬌声が響く、ほんわかとした空気に笑顔になってしまう巨石構造物でした。
近隣には、石舞台古墳や酒船石、蘇我入鹿の墓などの旧跡があります。
また、あんな石やこんな石など、珍石、奇石の宝庫です。
石舞台古墳のミニレポートはこちら↓