先日、ストーカー殺人事件が発生した本八幡駅前。


JR本八幡駅 2005.08.26

 

当駅にはJR総武線、都営新宿線が乗り入れ、徒歩5分ほどで京成八幡駅もあり、新宿や上野方面からのアクセスが便利です。


京成百貨店市川店 2005.08.26
京成百貨店市川店 2005.08.26
※写真の京成百貨店は、2007年3月31日閉店(2~4F)、2010年2月28日完全閉店(1F)の後、解体・再開発され、2013年7月京成本社ビルが竣工しています。

 

それら駅から徒歩約5分、国道14号(千葉街道)沿いに鬱蒼と茂る藪があります。


不知八幡森 2005.08.26

 

立入ると出られなくなるという伝説で名高い「不知八幡森」通称「八幡の藪知らず」です。

 

2005年夏の終わりに訪れました。

 

孟宗竹が伸び放題で、ある種異様な雰囲気ではありますが、縦横20mに満たない小さな藪。


不知八幡森 2005.08.26

 

その横には駐輪場が整備されており、すぐ前を走る国道は渋滞著しく、藪の斜向かいには市川市役所があり、人通りも多く、駅近くの一等地にこのような藪があること自体、不思議な事ではありますが、特に心霊スポット的な要素は感じられません。


不知八幡森 2005.08.26

 

国道沿いの歩道正面には、鳥居が建立され、境内に不知森神社(しらずもりじんじゃ)が祀られています。藪の四方囲いが施され、一角に立入ることができるのは、神社の境内だけでです。


不知八幡森 2005.08.26
不知八幡森 2005.08.26

 

境内の一角には、藪の解説案内版が市川市教育委員会により設置されています。


不知八幡森 2004.12.13

 

不知八幡森通称八幡の藪知らず)

江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かせず。」とか、「藪の間口漸く十間(約一八メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑樹生じ……」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず崇りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。

 入ってはいけない理由については、

・最初に八幡宮を勧請した旧地である。

・日本武尊が陣所とされた跡である。

・貴人の古墳の跡である。

・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず崇りがある。

・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。

……と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(一六五七~六一)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。

 「藪知らず」に立入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。

 またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池(ほうじょういけ)」の跡地であったからではないかと考えられます。

 古代から八幡宮の行事に「放生会(ほうじょうえ)」があり、放生絵には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。

 市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。

 「不知八幡森」の碑は、安政四年(一八五七)春、江戸の伊勢屋宇兵衛(いせやうへい)が建てたものです。

平成十六年三月

市川市教育委員会

 

以上、解説案内看板転載

 

境内には、解説案内版に記されている、安政四年に建てられた石碑などが並んでいます。

不知八幡森 2005.08.26
不知八幡森 2005.08.26

 

はるか昔には迷うほどの広さの森で、藪の中には底なし沼があったり、藪中央の窪地から毒ガスが噴き出していたり、あるいは血だらけの鎧武者が追いかけてくるなどという話を耳にします。しかし、どれももっともらしい話ではありますが、地形や伝説に由来するだけで、科学的にも根拠に乏しい説です。

 

また江戸時代に、諸国漫遊中の水戸光圀公が、供の者が止めるのも聞かず、藪に入り、七日七晩迷った末、神に説教をされてようやく出てくることができたという話が、のちに錦絵となり、この藪が有名になったとされます。

 

しかし、封建君主制の時代において、天下の副将軍(俗称)を笑いのタネにすることなど許されざることです。光圀公存命中にそのような話が広まったとすれば、光圀公の面目はまる潰れ。噂を広めた者たちは、御上を愚弄したとして厳罰に処せられたのではないでしょうか。

 

そもそも光圀公が、諸国漫遊した事実はなく、領国である水戸と江戸の往復のほか、日光や鎌倉への参詣、房総などしか訪れたことがありません。この房総を訪れた時に、「不知八幡森」に迷い込んだと考えることもできるでしょうが、そのような記録や根拠はなく、いささかフィクションとして出来すぎのような気がします。

 

この様子を描いた錦絵「不知藪八幡之実怪」の作者・月岡芳年(1839~92)は、江戸末期から明治中期に生きた画家ですから、江戸前期に活躍した光圀公(1628~1701年)とは、200年以上も開きがあります。江戸末期にもなると、幕府の威光も衰えを見せはじめ、様々な事実や虚構を継接ぎして、この様な話が完成したのかもしれません。

 

御社の後ろから藪を覗きこんでみますが、向こうの住宅が見えるほどの奥行きで、とても入ると出てこられなくなるほどの広さには感じません。


不知八幡森 2005.08.26

 

解説どおり、藪の中央部が凹んでいるように見えました。

 

底なし沼の跡?あるいはこの窪地から毒ガスは噴出!?事実だとすれば、人が近づくどころか住宅密集地になろうはずがありません。

 

やはり、解説案内版の後半に書かれていることが、この藪の真相なのではないでしょうか。

 

ここに訪れた際、境内を熱心に掃き清められている、品の良い老紳士に出会いました。周辺に住まう方たちは、いまもこの藪に畏敬の念を抱いておられます。

 

興味本位で訪れ、藪の中に立ち入ったり、騒いだりすることはタブーです。

 

◇概要

不知八幡森(通称 八幡の藪知らず)

千葉県市川市八幡2丁目8

●アクセス

JR総武線本八幡駅より徒歩5分

都営新宿線本八幡駅より徒歩6分

京成八幡駅より徒歩5分