八本杉を出発して、斐伊川に沿ってまっすぐ進み、松江自動車道の高架を過ぎて右折、突き当りを左折、しばらく進むと左手に尾留大明神旧社地の看板が見えます。そこを左に入り田んぼの畔を進んで行きます。斐伊川土手の手前を左折、少し急な上り坂の途中、左側にひっそりとあります。
猫の額ほどの狭い境内に石碑と石柱。由来書きには次のように記されていました。
尾留大明神旧社地(天叢雲剣の発祥地)
八塩折の酒に酔いつぶれた大蛇を退治した須佐之男命は、この御立薮で大蛇の尾を開いて宝剣を得られたが、その宝剣の上に怪しき雲があったので、「天叢雲剣」と名づけて天照大御神に献上になり、後、三種の神器の一つとして今も名古屋の熱田神宮に祭られている。この御立薮(現在は畑地)は須佐之男命と稲田姫を尾留大明神と称し広く崇拝されていたが、斐伊川の氾濫により、延享元年(一七四四)約二〇〇メートルの南方のここ大津の丘陵中腹に移転。明治四年に御代神社と改称され、更に大正元年日吉神社地に移転合祀して今の御代神社(南方約五〇〇メートル)となっている。
以上、由来書き看板より全文転載
「天叢雲剣」は天皇家に伝わる三種の神器です。元暦二(1185)年、壇ノ浦の合戦で二位尼(平時子)と安徳帝と共に波の下の都へと没し、その後は行方不明とされており、現在、皇室に伝わる宝剣は、崇神天皇の頃に作られた形代の剣のようです。
御代神社旧社地趾を示す石碑
由来書きからすると、この尾留大明神旧社地も八本杉と同じく、暴れ川の斐伊川治水の象徴ともいわれる八岐大蛇退治神話の旧跡ですが、その平定したはずの斐伊川の水害によって流出し、移転を余儀なくされたということはなんとも皮肉な話しです。
由来書きを参考に、八岐大蛇の尾を開いて「天叢雲剣(草薙の剣)」を得た御立薮と云われる本来の場所は、ここから北へ約200mの畑地らしく、その場所を探ってみましたが、程なくして正面、北の方向から激しく吹雪いてきましたので諦めました。
そして、真正面に見える印象的な小山・・・
あの小山も八岐大蛇伝承地のひとつなのです。
そのお話しは次回・・・