米子市の西端の中海沿い、標高90mの湊山(通称・城山)には大天守と小天守の二棟の天守閣を持つ米子城(別名・湊山城)がそびえていました。明治初期に古物商が買い取り、解体された二棟の天守の木材は、あろうことか風呂の薪にされたと伝わります。

現在は、湊山山頂付近に見える石垣が米子城の名残を留めており、米子下町からも見ることができます。

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-米子城天守台 2013.02.19


ぐ―――――んと、城山を眺めると・・・目

ややっ!!天守址に人影が!!

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-米子城天守台 2013.02.19


城山の天守址から見た景色ひらめき電球

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-城山(米子城址)からの眺望 2012.04.27


米子城は近世城郭としてほぼ完成したのは、松江城の築城より10年早い、1601(慶長六)年のことです。米子市内はもちろん、遠く日本海、北は島根半島の美保関から南にそびえる大山まで一望でき、ちょっとした城主の気分を味わうことができます。

山陰歴史館(旧米子市廰舎)の常設展示「米子城物語」で米子城天守の模型などの資料が展示されており、無料での見学ができます。築城に至るまでの流れが説明されていましたので転載します。

 

米子城の築城について

 

 応仁の乱(一四六七-一四七七)が発すると、伯耆国の守護職山名氏の一族山名宗幸が米子の飯山に砦を築いたという。その頃、山名氏と出雲の尼子氏との間に戦いが繰り広げられ、米子城はその渦中にあったことが戦記物などから窺い知られる。しかし、米子城といっても土塁と空堀を持つ程度であったろう。まだ現湊山にも砦が築かれていたかどうかは不明である。

 十六世紀半ばに至って出雲・伯耆は毛利氏に制圧される。周防(山口県)の大内氏の部下であった三吉吉種は、主家滅亡により天文二十年頃(一五五一)伯耆榎原郷(米子市)実久村に来て縁家の古曳氏を継ぎ、毛利氏に属す。そして吉川広家の命を受け、飯山に城を築いて城代となったが、文禄元年(一五九二)朝鮮に出兵して戦死した。

 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いの後、広家は居城月山戸富田城を去り、防州(山口県)岩国へ移り、かわって駿州(静岡県)駿府城から中村一忠が伯耆十八万石の領主として移って来た。慶長六年春、一忠十二歳であった。その時米子城は「いまだ城郭もなく屋敷もなし。それ故、程なく南の方に一町余り堀をほり石垣を築立しが」(中村記)という状況であった。(もっとも築城に関しては吉川氏の家臣原善大夫の“好問随筆”に「慶長五年には十の物七つ程出来候得共奥州御出陣の公役にて大坂へ御登ならせられ候、其後は御国替にて防州へ御移りならせられ候」とあるが、吉川氏文書に米子城築城資料がまったく見当たらない。吉川氏時代に建てられたという四重櫓についても、最新の研究によれば、米子城全体の縄張りを見た場合、一貫性を有し、中村氏時代にほぼ期を同じくして築かれたと考えるのが妥当であるといわれる。)

 慶長六年から七年にかけて、米子城と城下町の整備は家老横田内膳正村詮を中心として進められ、ほぼ一年かけて藩主の居住が可能になった。慶長七年、一忠は尾高城から米子城に移っていったが、城の完成にはなお数年の歳月が必要であったと推測される。

 

※以上、山陰歴史館掲示資料より全文転載


そして天守閣に付き物といえば・・・、そう鯱(しゃちほこ)ですね。

米子城の天守に使用されていた鯱のひとつが鹿島本家の中庭に鎮座しており、まち歩きの途中に立ち寄って見せていただくことができます。

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-米子城の鯱・鹿島本家 2013.02.19


近づきすぎ注意!?

別に噛みつきゃしませんのでご安心ください(笑)

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-米子城の鯱・鹿島本家 2013.02.19


400年以上前に作られ、天守の屋根に鎮座していた本物の鯱を直に、間近で見られることはそうそうありません。米子のまち歩きの特典みたいなものじゃないでしょうか?

こうやって見せてもらうの何回目だろうはてなマーク

それにしても、なぜお城の天守に鎮座していた鯱がここに・・・はてなマークはてなマークはてなマーク

その答えは、鯱の後ろにある由来書きに記されています。

 

米子城の鯱

 

米子城には大小二つの天守閣があり、その双方に鯱が置かれていた。大天守閣の鯱は明治初年(十年・十一年頃)城が解体されたとき、藩主池田氏に引き取られ東京の私邸に据えられていたが関東大震災でこわれたと伝えられる、小天守閣(四重櫓)は今から百五十七年前の嘉永五年(一八五二)痛みがひどく、本家鹿島・分家鹿島両家の拠出金により修理が行われた際、古い鯱は記念として両鹿島家に渡り、それぞれぞれに保管されて現在にいたっている。なお米子城の築城は天正十九年(一五九一)より工事にかかり、慶長六年(一六〇一)ほぼ完成した。鹿島家にある鯱は四〇〇年以上前に製作されたもので、今から百五十七年前から鹿島家に伝わっている。新しい鯱は瓦師松原仁左衛門氏により制作されたが、嘉永五年製と六年製の二組がある。嘉永五年製は試作品と思われるが、城の解体時に業者山本新助から村上家が譲り受け昭和十五年、その内の一点が山陰歴史館に寄贈された。嘉永六年製は城の解体時に、その頃米子城の所有者の武士団(新国隊の幹部【因幡二十士】が藩主池田氏より払い下げを受ける)の一人であった伊吹市太郎が義方小学校初代校長を勤めており、新設する義方小学校の屋根にあげるために引き取った、現在も同行で大切に保管されている。(平成二十一年作成)

 

※「米子城の鯱」由来書きより全文転載


痛んだお城の改修をしなければならないが、お金がないのでできない・・・、そんな殿様に代わって改修費用を拠出し、その印としておよそ160年前に、天守の鯱が下賜されたということなのだそうです。

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-米子城の鯱・鹿島本家 2013.02.19


ちなみに鹿島本家・分家が拠出した改修費用は一万両、現在の貨幣価値に換算すると7千万円!!まさに豪商、鯱もビックリ!!オドロキでしょう!!

現在、鹿島屋さんはお茶屋さんを営んでおいでですが、江戸時代は両替商、つまり銀行業で財を成しておられました。つい先日も、近隣の住民にいくら貸したという内容の江戸時代の借用書が数多く発見されたそうです。いついつ、どこの、だれにいくら貸したということが明確に残されているということなので、それを調べれば、当時の住民台帳が作成できるほど資料的価値の高いものだったようです。

そして、当時の鹿島本家の住宅絵図面を見せていただきましたが、なんせ広い!!そして邸内に蔵が八つも九つも見られますひらめき電球それこそ殿様よりもお金持ちだったんでしょうね音譜

そして現在の店舗兼住宅ですが、いわゆる鰻の寝床と呼ばれる奥に細長い、これぞ商家といった風情の趣きあふれる建物です。ご主人曰く「まだこれは建てて80年ぐらいしか経っていない新しいものだから・・・」とのお言葉・・・、確かに江戸時代から続く名家からすれば、80年は新しいですよね。江戸時代から続く名家のご主人ですが、いつお伺いしても気さくに話しかけてくださり、くわしく説明してくださいます。お話をしているとあっ!!という間に時間が経ってしまい、ついつい長居してしまいます。

鹿島屋さんの前は長く更地のままでしたが、なにやら工事がされています。

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-鹿島本家前から見える天守台 2013.02.19


看板を見ると、東屋やお手洗いを新たに建設し、公園として整備されるようですね。完成すると、また景色が変わりますねひらめき電球

そしてここからも、米子城の天守址が望めます目

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-鹿島本家前から見える天守台 2013.02.19


400年以上前、湊山山頂に築城された屋根の上から、米子城下を見守っていた鯱が今は城下の中庭でひっそりと、のんびり心穏やかに余生を過ごしているんですね。

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-米子城の鯱・鹿島本家 2013.02.19


じっと見ていると、喋りだしそうなぐらい楽しい表情をしていませんかはてなマーク

そして、この鯱が本当に活き活きと見えるのは雨の日雨

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-鹿島本家の鯱 2012.09.30


雨に洗われて光る木々の葉や苔むした灯籠、そして鯱うお座

雨の日の鯱は晴れの日のそれとちがって、まさに水を得た魚うお座

そもそも鯱は波を起こし、雨を呼ぶと云われる霊獣ですから、雨が降ると喜ぶというのも理に適っているのではないでしょうかはてなマーク

このことから、鯱は火難除けの呪(まじな)いとして、また守り神として城の一番高いところに掲げられているわけです。

雨が降ると外に出るのが億劫になりますが、雨降りだからこそ楽しめるこんなご褒美も待っています。なかなか乙なもんでしょひらめき電球