本通りを西へ進むと橋があります。
「このはしわたるべからず」的なとんちなどはありません
旧加茂川に架かる加茂川橋は、ここから北西側は水運時代に栄えたまちで、ここから南東側は1902(明治三五)年11月1日に境港~御厨間に鉄道が開業して以降に栄えることになったまち盛衰の分水嶺となる場所です。
加茂川橋から見えるの直角に曲がった川筋、ここは曲がり淵と呼ばれている魔所のひとつです。まぁ、魔所といいましても、心霊的な要素などの欠片もありません。淵の縁に見えるお堂にお祀りされているのが「川守り地蔵尊」、そのお堂をぐるりと廻るザクロの木。
地蔵堂の脇に由来書きがありましたので読んでみます。
川守り地蔵とざくろの木の由来
江戸時代、この場所は深く渦を巻き、ここで泳いでいた子供達がよく溺れて亡くなった。その供養と子供たちの安全を願って、鹿島家が地蔵様を建立されました。また同時に、ザクロの木が魔除けとして、安全と幼児を守る木として植えられ、今日、皮一枚の姿になっても、地域の安全を守っているパワーのある木です。
以上、由来書き看板より全文転載。
以前、といっても百年以上も前の話しになるんでしょうが、この川は水量も多く、流れも早かったうえに、「曲がり淵」という特殊な地形で、複雑な流れが渦を巻き、そのため水底が深くえぐられて、現在よりも遙かに危険な場所であったことがこの由来書きより推測できます。
ザクロの原産は西南アジア、あるいは北アフリカや南ヨーロッパなど諸説あります。調べてみるとものすごく古い植物で、紀元前1500~1000年頃に古代エジプトへ伝わったとされています。東洋へは前漢、紀元前二世紀頃に伝わったと『経史証類備急本草(けいししょうるいびきゅうほんぞう)』(通称『証類本草(しょうるいほんぞう)』)の記述に見られます。「本草書」とは、薬用の植物・動物・鉱物などの薬効や産地、姿形などが記された薬学書のことです。ザクロの実は薬効の他に、銅鏡の曇りを防止するために磨く材料として用いられました。一四世紀のはじめにイタリアでガラス鏡が発明され、一九世紀中頃に量産されるようになるまで、鏡と指すものは、古くは石板鏡、そののち長くは銅鏡などの金属鏡のことでした。
アニメ第1期の“ゲゲゲの鬼太郎”第29話「鏡合戦」で、妖怪「雲外鏡(うんがいきょう)」の魔力を打ち砕く「照魔鏡(しょうまきょう)」の錆落としにザクロの実が使用されていたシーンがありました。劇中では、二千年経た銅鏡は自然に物質が変化し、雲外鏡という妖怪になるとされています。この「雲外鏡」は、知力・妖力共、稀にみる強敵でしたが、銅は塩水に弱い!!ということで、塩水をかけて
やっつけられ、赤錆と化しました。話が大きく逸れましたが、ザクロの日本伝来は、中国あるいは朝鮮半島を経由して、十世紀前半だとされています。
ややっ
曲がり淵が魔所どころか、鳥たちが羽を休めてくつろげる楽園になっていますね。
う――――む・・・、いつか見た景色・・・
デジャブ
計ったわけではありませんが、この写真を撮ったちょうど一年前の2012年2月19日、まったく同じアングルからの一枚です
鳥さんたちの数はちがいますが・・・
何といいますかワタクシ・・・、進歩がないね
米子市中心部を流れるこの旧加茂川には、江戸時代まで河童が棲んでいたという話が残っています。
この河童は少々エッチだったようで、米子城下のお屋敷で、夜、雪隠(せっちん、今でいうトイレ)でその家の娘の尻を撫でたという。ある日、米子城の剣の達人が河童を退治しようと、娘の姿に変装し、数日待った後、河童が現れたので、その手をつかみ切り落とし、家へ持ち帰ったという。しばらくすると、侍の家の前に河童が現れ、手を返してくれるよう懇願したという。二度と悪さをしないと約束させて、腕を返してやったという。そのお礼に、なんにでも効く膏薬と接骨法を書いた巻物を置いて行ったと云われています。
腕を切り落とされた河童が「わび証文」を書いたり、「秘薬」を伝えたりといったお話は海を渡った隠岐の島でも聞かれます。また、このような筋立ての話は全国各地で聞かれたりもします。
こうした話しが全国各地で自然発生的に伝えられてきた話なのか、元話があり誰かが伝えて回ったのか、興味深いところです。