【第11回 劉皇叔 北海に孔融を救い 呂布  濮陽で曹操を破る】


~その8~(通算111回)
『急襲、呂布』



曹操の命令を受けた夏侯淵が剣を抜き、そばにいた兵士に、
「その使者をつれて来い。そいつの首を軍門にかかげて出陣だ」
と命じれば、すぐさま軍師郭嘉が、
「いや、その処刑は待たれよ」
とこれを止め、曹操の前に進み出て言った、
「劉備が遠路はるばる救援に馳せつけたにもかかわらず、こうして礼を優先して決戦を後にしたからには、殿も礼に応えた上で出陣せねば、天下の笑いものになるだけでなく、信用も失いましょう。それに、こちらも礼を示せば、劉備は必ず油断します。そこを一気に突けば、徐州は簡単に落とせるのです。殿、それでも使者をお斬りになりますか?」
すると曹操は、
「聞いたか夏侯淵、これが我々の軍師よ」
と笑い、夏侯淵も、
「感服いたしました」
と言って剣を鞘に収めた。


曹操が使者の簡雍をねぎらい、改めて軍臣を集めて策をねっているとき、突然、早馬が到着したとの報告が入った。
曹操は何事かと、すぐさまその使者を幕舎に通すよう命じた。
すると、肩や背中に無数の矢が突き刺さり血まみれとなった兵士が転がり込み、声を絞り出して、
「りょ・・・呂布軍が襲来・・・!兗州(エンシュウ)は蹂躙され、居城、濮陽(ボクヨウ)は・・・陥落!」
そう言って倒れ、曹操は絶句して天を仰いだ。


元来、呂布は李カク・郭シの乱によって長安を追われ、袁術のもとに身を寄せようとしたが、袁術は呂布の並外れた武勇を恐れて受け入れようとしなかったため、袁紹のもとに身を寄せた。
呂布は袁紹の要請を受け、常山郡で猛威をふるう黒山賊の張燕を打ち破ったが、これにより、己の功績を鼻にかけ、袁紹配下の武将を軽んじるようになったので、袁紹に命を狙われてしまう。
そのため、呂布は張楊のもとに逃れ、張楊は彼を受け入れた。
このとき、呂布と親交のあるホウ舒(ジョ)という者が、長安城内で密かに呂布の家族を匿っており、それを呂布のもとに送り届けたが、李カク・郭シはこれを知ってホウ舒を斬り殺し、張楊に書面をやって呂布を殺すように脅したので、呂布は張楊のもとを去って、張邈(チョウバク)のもとに身を寄せた。


おりしも、張邈の弟の張超が、曹操と決別した陳宮をつれて張邈に会いにきた。
陳宮が、
「いまや天下は大いに乱れ、英雄豪傑が各地に割拠しております。なのに、張邈殿は才能と領地を有しながら、何も成さず人に使われる日々とは不甲斐ないではありませんか。いま、曹操は遠征して兗州に人はなく、しかも呂布は当世に並ぶ者なき勇士。もし彼と力を合わせて兗州を取られるなら、中原は張邈殿の思いのままとなりましょうぞ」
と勧めたので、意を決した張邈は、別室にいた呂布と弟の張超を呼び、曹操領土襲撃を相談した。
呂布は言った、
「張邈殿は、行く宛てもないこの俺を受け入れてくれた。濮陽を奪い、曹操の首をもって、その恩に報いよう」
陳宮は言った、
「ならばこの陳宮がお供いたしましょう」
聞いた張邈は大いに喜び、呂布に自軍の兵馬を与えようとしたが、
「いや、その必要はない。我が軍は数こそ少ないが、彼らは西涼時代から一緒に戦ってきた歴戦の友たち。心配は無用」
と呂布は増援を断り、その場で意気投合した陳宮と、張遼・高順ら屈強な同志と兵士を引き連れて出陣した。


呂布は兗州にある曹操軍の拠点を次々と襲い、またたく間に濮陽を陥落させた。

ただ、ケン城・東阿・笵県(ハンケン)の3城のみ、荀彧(ジュンイク)・程昱(テイイク)の尽力によって辛くも落城を免れたのだが、他はことごとく呂布軍の猛攻の前に破られた。
守将曹仁は必死に抵抗したものの敗北し、いまこうして兵士が危急を告げにきたのである。


この報告を聞いた曹操が、
「兗州が落ちたら・・・私に帰る場所はない!」
と狼狽するところへ、郭嘉が、
「殿、逆にこれを好機と考えるのです。まず、劉備の停戦要求を受け入れた形として撤退し、劉備に恩を売ることができるのです。そして、義父殺しの呂布を誅滅すれば、殿の名はますます天下に轟きましょう」
と言ったので、曹操は立ち直って大きくうなづき、ただちに劉備に返書を送り、陣を引き払って兵を退いた。


こうして、曹操と呂布の二大英傑が、ついに激突することとなった。




          次回へつづく。。。