【第11回 劉皇叔 北海に孔融を救い 呂布  濮陽で曹操を破る】


~その7~(通算110回)
『劉備から曹操へ』



陶謙は言った、
「今、天下は大いに乱れ、正義の威勢は振るわない。されど劉備殿、貴殿は漢皇室のご一門であり、その力を天下国家のために尽くさんとしておられる。一方、わしは力いたらず無駄に年を重ねるばかり・・・。わしは、貴殿にこの徐州をお譲りしたいのです。どうかお受け取りくだされ。わしはただちに上奏文を書き、朝廷にこの事をお伝えいたします」
劉備は席をすべり下りて再拝し、
「私は漢皇室につらなる者とは申せど、功は少なく徳も無く、平原の県令でも身に余る任でございます。このたびは大義によってお力添えにまいっただけなのに、この領地をいただくなど、絶対になりません」
「いいや劉備殿、どうか、わしに代わって徐州をお治めくだされ。わしの心からの願いです」
と陶謙は再三譲ろうとしたが、
「これを受けては義に反します。どうかお許しください」
と劉備は決して受けようとしない。
このとき、糜竺が進み出て、
「陶謙様、曹操軍は城下に迫り、まだこの徐州は危険にさらされたままでございます。まずはこれを退ける策を話し合い、この危機を完全に乗り切ってから、改めてお譲りになる事にすればよろしいかと存じます」
と言うので、陶謙はひとまず納得した。


「ならば、私が曹操に書面をつかわして和睦を勧め、もし駄目であれば、曹操軍と雌雄を決しましょう」
と劉備は言い、ただちに全軍に出陣の準備をさせ、和睦の使者を曹操のもとに差し向けようとしたが、
「ううむ。とは言うものの、激怒する曹操に和睦の要請となると、下手をすれば殺されるのでは・・・」
と不安がる陶謙。
劉備も、確かにそうだと、誰を使者にするべきか大いに悩んだ。
糜竺が、
「ならば私が参りましょう」
と名乗り出、さらに張飛も、
「兄貴、俺が行くぜ!」
と名乗り出るのとほぼ同時に、もう1人、この危険な任務に名乗り出る者がいた。


一同が見れば、簡雍(カンヨウ)、字は憲和(ケンワ)であった。


この簡雍は、劉備と同じ幽州涿郡の生まれで、劉備とは旧知の仲。
特別、武勇に優れているわけでもなく、特別、智謀に長けているわけでもないのだが、不思議と人の心を和ませる力があり、かつて桃園で挙兵した同志達の中でも、劉備が本当に気を許せる、まさに友と呼べる男である。


「おお、憲和!行ってくれるか!」
「へへ。玄徳さん、こういう時こそ俺を使ってくださいよ。陶謙様の側近中の側近の糜竺さんを危険な目に遭わせるわけにはいかねえし、張飛の旦那に使者なんてやらせられねえっしょ。こんな時こそ、俺ですよ、俺」
「憲和・・・すまぬ」
劉備は簡雍の手を取って礼を言うと、曹操宛の書状を書いた。
「これで俺が死んじまったら、田舎の母親に、俺は立派に戦ったって伝えといてくださいな」
そう言って、簡雍は笑いながら劉備の書状を手に取ると、護衛を連れることもせず、振り返ることなく城を出た。


やがて簡雍が曹操軍陣営に到着すると、曹操軍の兵士は簡雍を外で待たせ、書状を曹操の元に届けた。

この時、簡雍は曹操軍の屈強さと規律の整ったさまを見て、

「(これは恐ろしい軍隊だ)」

と思わず息を飲み込んだ。


さて、曹操は本陣に諸将を集めて軍議を開いていたが、徐州から使者が来たと聞き、さっそく封を開いて見れば、劉備からの書状である。
その内容は、


  『かつて虎牢関の外で尊顔を拝してのち、私たちは遠く離れ、お会いする事も出来ませんでした。先頃、ご尊父が悲運に遭われたのは、ひとえに張闓(チョウガイ)の悪行のためであって、陶恭祖の罪ではございません。現在、都の外では黄巾の残党どもが暴れまわり、都の内では董卓の残党がのさばっております。願わくば、曹操殿には、朝廷の危急を先とし、私怨を後とし、国難に立ち向かわれますよう。それこそが、天下の民の幸せでございます』


曹操これを読み終わって、
「・・・劉備・・・か・・・。覚えている。あの時の男が、いよいよこの私に指図しようというのか・・・」
そう言って小さく笑うと、書状を放り投げながら、そばにいた夏侯淵に、
「使いの者を斬り捨て、徐州攻撃を開始せよ」
と命じた。




          次回へつづく。。。