No Live, No Life. | 踏まれたり蹴られたり...._| ̄|○

踏まれたり蹴られたり...._| ̄|○

「踏んだり蹴ったり」って....あーた、被害者なら「踏まれたり蹴られたり」ってのが正しいんぢゃない??日本語ってばむつかしい...._| ̄|○  (BTW, ついでに、人も指せない「足の親指のトナリの指」を何て呼べばしっくりくるのか、教えてヱライひとっ!!)



見たいものの脇の見たくないもの。
から逃げるために “敢えて” 離れたことによって

【大好きなカタチ】 や
【大好きなオト】 を
いくつも見逃し
時に喪失くしたりもしたけれど

逃げることを選んだのは自分だし
二度と逢えない 【カタチ】 も
二度と逢わないだろう 【オト】 も
想い出にする以外に道はない。

逢いたい。本音を消せなくても。



無二として求められる。レベルの
居場所があるシアワセ。や

活き活きと唄う。を
実現出来るシアワセ。や

自由に泳ぐ。が
赦されるシアワセ。



それを目にするシアワセ ──


今もソコに居てくれるから逢えるオトやコエ。とか

伝え、重ねてきたことで得られた関係性。とか

画面に突然開いたメッセで
“トにもカクにもイマも”
カウントして貰えていると知れた夜明け。とか

距離が遠くなろうが
関係性が薄くなろうが
全てが喪失くなったワケではない現実。とか

そんな

当たり前のようで
当たり前でないかも?

なシアワセ。




を知っているという
シアワセ。



特別。なんかでなくていいんだ。

(道端に落ちてる君を偶然見つけて拾って
交番に届けないでお持ち帰りしたらそれは
やっぱり窃盗罪に当たると思うの。)


個として。のプライベートな “時間” を求めてるワケではなくて
個として。アタシが存在した “記憶” が欲しいんだ。

君との間で交わしたコトバを
時々でいいから思い出してくれる
それだけで充分なんだ。


....自己否定という卑屈さから救われたい
それが本音なのかもしれないけれど。



そして縁した
微笑むことが出来る新たな時間 ──


それは

安らぎを憶える声。
に酔えるような時間。で

傍で “唄う” 音やリズム。
が心地よくて見つめたくなる時間。で

芯はあるのに柔らかな唄。
に優しく包み込んで貰える時間。で

声に。音に。唄に。
品評抜きで身を委ねていられる時間。で


だから

発する側に
表現者として納得しかねるナニかが存在したとしても

受け取る側に
ソレに肯定的でないヒトが居たとしても

アタシには。

アイたい。で動いた
原点に回帰させてくれる貴重な時間。




嗚呼。

だから今
無性に君にアイたいのかも??



足りないナニか。に
嘘を感じてしまう表現と
見守れる表現との違いは

伝えるために
選び重ねた時間や努力以上に

“演じ切れるか否か”

なのかもしれない。


ステージの上に立つ者は誰もが
“演者” なのだから、さ。



徒然なるままに。