東京回想、東京都内の消えた学校。
都区内の私立高等学校の続き。

機械的に区の順番で進めていく。
杉並区の消えた高校の続きである。
この区は何校かある。
次は済美高等学校である。

【学校名】
済美高等学校。

【廃校時の所在地】
杉並区堀ノ内1-19-25。

【消滅年】
1950年。

【消滅事由】
「財団法人済美学園」が敷地、建物、設備一切を杉並区に寄付したため。

【統合後の後継校】
不詳。

【前身学校等】
以下の歴史をたどっている(一部類推)。
1907年 「日本済美学校」開設、全寮制少数教育を実施。
1935年 済美中学校設立。
1948年 学制改革により済美高等学校に改称。
1950年 廃校。

【跡地利用】
杉並区立済美養護学校。

【コメント】
東京回想・消えた学校。
私立高等学校の続きである。
杉並区である。

この区には消えた学校は複数ある。
次は済美高等学校である。

Wikiにあった「東京都高等学校の廃校一覧」を参照して進める。

さて、このリストに学校名はあった。
内容の記述は以下の通り。
---以下引用---
済美高等学校(1950年閉校、跡地は杉並区立済美養護学校に)
---以上引用終わり---

これ以外、何もわからない。

Wikiの「旧制中学校」「高等女学校一覧」を見てみた。
記述はなかった。

「済美高等学校」で検索。
全国の同名の学校が出てくるだけ。

「廃校一覧」の同校の「注釈」には、こう書かれていた。
---以下引用---
済美養護学校の公式ウェブサイトでは日本済美学校となっている。
---以上引用終わり---

「済美養護学校」で検索。
「沿革」が見つかった。
冒頭を引用する。
---以下引用---
明治40年 今井恒郎先生「日本済美学校」開設、全寮制少数教育を実施
昭和25年 今井政吉先生「財団法人済美学園」の敷地,建物,設備一切を杉並区に寄付
---以上引用終わり---

「日本済美学校」でも検索した。
現在の「学校法人済美学園整備高等学校」の「■済美という名称について・由来と意味」の言う項が引っかかった。
関連する部分を引用する。
---以下引用---
東京都杉並区立済美小学校は、 明治40年今井恒郎氏が創設した日本済美学校、昭和9年済美中学校と改称、
その校舎・敷地が杉並区へ寄付され、そこに杉並区立教育研究所が設立され、その実験学校として昭和28年に設立されたものである。
---以上引用終わり---

「今井恒郎」で検索。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に「 「今井恒郎」の解説」があった。
関連する部分を引用する。
---以下引用---
1865-1934 明治-大正時代の教育者。
慶応元年11月6日生まれ。
五高教授,滋賀・茨城の中学校長などをつとめる。
明治32年退職して東京で梧陰塾をひらく。
40年日本済美学校と改称し,その校長となった。
昭和9年10月27日死去。
70歳。
伊勢(いせ)(三重県)出身。
帝国大学卒。
---以上引用終わり---

漱石先生より4つ上の教育者の方である。

「今井政吉」でも検索してみた。

「日本の銅像探偵団」というサイトで「今井政吉(杉並区)」の項があった。
(参考にさせていただきました。ありがとうございます。)

済美教育センターにこの人の銅像が設置されているのだそうだ。
コメントにリンクがあり、林久治さんの「銅像探索記:166回今井政吉像」と言うPDFを見ることができた。
(参考にさせていただきました。ありがとうございます。)

このサイトによると、この銅像は「杉並区済美教育研究所創立十周年を記念してこれを建てる 昭和三十六年三月十日 杉並区長 加藤豊三」との銘盤があるのだそうだ。

また、「済美碑」と題する大きな石碑が設置されているとのこと。
碑文にはこう記されていると、このPDFには書かれている。
(コピーさせていただきました。ありがとうございます。)

済美学園は伊勢津の人今井恒郎君これを創設し、嗣子政吉君これを継承して始に中學一時小學を設け、昭和廿二年学制改革と共に中學高等科を竝置した。
設立者今井君は徳島彦根水戸の中學校長五高教授として令名あり。
學和漢洋に亘り自任最も高く夙に獨自の教育理想實現の大志抱き、明治四十年地を都郊堀之内に卜し、先ず寄宿寮を設けて家庭的親和の裏に子弟の陶冶をはかつた。
其外體育遊戯美育作業の施設等企劃は雲の如くであつたが、家塾的教育と大量入學とは両立せず、後援乏しく經營多難専門課程増設の抱負も實現を見ず、昭和九年七十歳で没し、政吉君の苦心も意に遺業を恢弘するに到らず、困難は特に敗戦後に甚しかつた。
今年三月君は心中深く決する所あり、學園を廃止し教員生徒を善後慮置の外無条件に校地六千五百餘坪と校舎備品一切を杉並區に寄贈するの断に出て、區も亦君が無私の芳志を感謝して敷地を恆久適切な教育施設に用ふるを約した。ここに顛末を記して永く今井君父子の志を傳へる。
昭和二十五年十一月一日 安倍能成 文竝

あらららら。
漱石先生のお弟子さんの文部大臣・安倍能成まで登場してしまった。

これ等の話を総合すると、今井恒郎さんと政吉さんは、親子。
この地に、1907年「日本済美学校」という寄宿式の学校を作り、1934年に済美中学校を創設した。
この年に恒郎さんはなくなられた。

ここからは、類推である。
戦後の1948年に学制改革で済美中学校は新制の済美高等学校となった。
1950年に学校を廃止し、施設敷地を杉並区にすべて寄贈することになったようである。

場所は、地下鉄方南町の駅から西北西に600mほど行ったところ。
このあたり、済美小学校とか済美山運動場とか「済美」と名のつく施設がたくさんある。

この今井先生たちの思いが、この地にこの名前を残しているのだと思うのである。