東京回想、東京都内の消えた学校。
都区内の私立高等学校の続き。

機械的に区の順番で進めていく。
次は江東区の消えた高校である。
この区は一校だけである。
石川島工業高等学校である。
統合された定時制高校の場合、統合された新しい学校のある区のところに書いていく。

【学校名】
石川島工業高等学校。

【廃校時の所在地】
江東区豊洲二丁目4番9号。

【消滅年】
1977年。

【消滅事由】
企業内高等学校の歴史的役割が終了したため。

【統合後の後継校】
なし。

【前身学校等】
以下の歴史をたどっている(wiki等より)。

1928年 石川島造船所が、中央区佃島に見習工教育のために実業補習学校を設立。
1932年 石川島工業補習学校と改称。
1935年 青年学校令により私立石川島造船所青年学校と改称。
1941年 校舎を佃島から深川区豊洲に移転。
1945年 戦災により校舎の大半が焼失するが、授業を継続。敗戦時に事実上の廃校。
1946年 焼け残った施設を再建して、生徒募集・授業を再開。
1954年 青年学校令廃止、学校教育法第83条により、石川島高等工学校を開設。
1955年 学校法人として認可を受けて、学校教育法第1条により石川島工業高等学校(昼間定時制校)を発足。
1977年 49年の歴史をもって閉校。

【跡地利用】
豊洲再開発地域。

【コメント】
東京回想・消えた学校。
私立高等学校の続きである。
江東区である。

この区には消えた学校は一校だけ。
石川島工業高等学校である。

Wikiにあった「東京都高等学校の廃校一覧」を参照して進める。

さて、このリストに学校名はあった。
Wikiにも記述があり、沿革もあった。

この工業高校、企業の中にいる中学校卒業後に入社した従業員に、工業高等学校卒業の技術と能力を習得させるために創設された企業内工業高等学校である。

簡単に歴史のおさらい。

富国強兵殖産興業で明治以来、科学技術を元にした重工業がこの国では発達してきた。
そして、地域の優秀な人材も選抜して採用していったようである。

ただ、戦前は、高等小学校卒業の経歴、戦後は新制中学卒業の経歴しか持たない青年たちが、入社することになる。

彼らに基礎的な技術や基礎的な学問をつけさせる制度として戦前は養成工制度という仕組みがあったそうだ。
また、企業内に青年学校を設けて、従業員に技術と学問を身に着けさせてもいたとのこと。

天下の石川島造船所は、1928年に見習工教育のために実業補習学校を設立。
1935年に青年学校として継続されたが、敗戦で事実上廃校。
戦後、授業を再開し、1954年に石川島高等工学校を開設。
翌1955年に石川島工業高等学校(昼間定時制校)を発足したのだそうだ。

この頃だと、まだ高等学校を卒業する人たちは全体のどのくらいだったのか。
半分はいかない。
もっと少ないはずである。

石川島に入社できる優秀な人材に、高度な知識と技術を身につけさせる工業高等学校だったのだと想定するのである。
昼間四年制の定時制と言うことは、例えば午前だけ授業を行い、午後は働くというそんな感じだったのだろうか。

そして、1970年代に入ってくると、人材の多くは高等学校卒業、大学卒業で入社することになる。
中学卒業後入社する人材は、たぶん、1970年代前半で募集されなくなり、この工業高校も廃止されたと想定されるのである。

企業内工業高等学校の歴史的な役割がこの時期に終ったと想定されるのである。

ネットで検索してみたら、この学校の同窓会のサイトがあった。
1960年代後半くらいの校舎の写真があった(参考にさせていただきました)。

場所は、石川島播磨重工業の豊洲工場の敷地内。
今のバス通り沿いにあった建物だったようだ。

今は、豊洲の再開発地区の中の一部である。
日本の重工業の一翼を担った多くの人材が、この場所で人生の基礎を学んだことになるのか。

皆さん、その後の日本の技術の牽引役になったと想定できるのである。

【蛇足】
東京下町にいると「石川島」とか「精工舎」とか「日立亀有」いう会社名は、その会社で技術を学び経験を習得する場所という意味合いも兼ねていた。
「あそこの旦那さん、石川島にいたから」というと、さまざまな技術を身に着けている人と言う意味になっていたのである。

今の工場労働者とは、ちょっと違う位置付けであったようだ。
言うならば、それぞれの工場が「工業専門学校」程度の個別の位置づけにあったような印象を受けるのである。

今回の学校を書いていて、そんなことを思い出したのである。