妻が「ネットフリックスに去年公開された映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」が配信されたよ」と言ってきた。


金曜の夜、見てみたのである。

水木しげる生誕100周年を記念して、「鬼太郎誕生」の前日譚を描いた作品である。

まず、結論。
戦前・戦後の「闇」と対峙する人たちの苦悩と日常を描いた傑作になっている。

ネタ晴らしはしなくないので、ストーリー等は、各自ネット等で参照してほしい。
簡単に1956年に突然廃村となった哭倉村(なぐらむら)に起こった奇怪で悲惨な事件をめぐる青年期の鬼太郎の父親と血液銀行社員・水木との友情譚とでも言えばいいか。

以下、感じたことを箇条書き。
・戦前の旧民法の闇。
この映画、市川崑監督の「犬神家の一族」にも、似ていると言われていた。
確かに、戦前から続く製薬会社とその闇の部分のモチーフは似ている。
実は、戦後の視点から見れば、戦前の家制度や家族制度は、今とはかなり違うもの。
個人の人権を蹂躙し、自由を抑圧することで成立していた社会であった。
故に戦後の「消費単位」としての家族ではなく、生産単位」としての家族制度がクローズアップされるとこの表現になるのである。

・奇妙な二人の奇妙な友情。
山奥の哭倉村にある製薬会社・龍賀製薬では、謎の薬「M」が製作されている。
この謎をめぐる中で、二人の青年がこの村に来る。
会社の中での地位を高めたい水木と自分の妻の行方を探す「ゲゲ郎」と呼ばれる幽霊族の青年。
この二人が、よそ者同士ゆえ、それから互いの利益のため、そして、最後には深い友情を誓い合うことになる。
水木先生、「鬼太郎」を描くとき、「奇妙な戦い」を描くことを考えたのだそうだ。
その視点で見ると、奇妙な二人の奇妙な友情が、この映画の主要な柱の一つになっている。

・個人の自由を抑圧する制度や仕組みの中で苦しむ人々(被害を被る側)。
戦前から続く謎の薬を作る龍賀製薬とこの哭倉村には、とんでもない秘密が隠されており、その謎ときがこの映画の主要な柱の一つになっている。
それは、一般市民の生存権を抑圧し、それこそ、その生命まで奪い去る構造である。
製薬会社と、生存権の剥奪。
「薬害」と言う言葉を思い出した。
また「公害」という言葉も浮かんできた。
これは、筆者の解釈である。
戦後多く起こった薬害・公害訴訟と同じ構造である。
水俣病、イタイイタイ病、四日市の喘息、スモン病、サリドマイド児……。
結果的にこの構造への暗喩であるようにも思えるのである。

・個人の自由を抑圧する制度や仕組みの中で苦しむ人々(被害を与える側)
そして、この製薬会社を維持する当主・龍賀時貞が出てくる。
その息子や娘たちもいるが、決して個人として幸せではない。
それどころか、会社の利権を貪らんがために、醜い争いをするか、その仕組みの犠牲になって呻吟している。
これは、筆者の解釈である。
この構造、戦前までのやんごとなき畏き当たりの構造にも似ていないか。
明治憲法下で組まれた仕組みの下で、その家族が「生産単位」として発展していくとこの抑圧構造となって行くようだ。
その点では、犬神家でも同様である。
時貞の長男・龍賀時麿が平安時代の貴族と化粧をしている姿は、その構造への暗喩と取ったら悪質か。
また、この構造は、仕組みである。
個人の意思や能力ではない。
故に、龍賀時貞の邪念の籠った魂が年若い孫・長田時弥の身体を乗っ取るという暴挙も、実は構造の維持と言う点の暗喩であると感じたのである。

・血液銀行社員・水木の経歴。
彼の経歴は、御大・水木しげる先生と重なるもの。
そして、その経歴は、戦中の大日本帝国の一般市民(この概念ではだめか。庶民か)の多くが体験したもの。
卑怯にも自分だけが逃げていく上官の姿に、長女・龍賀乙米の姿が重なって行くのは、この構造が戦前から戦後に脈々と繋がっていることの暗喩であると感じるのである。

・そして、鬼太郎の父・「ゲゲ郎」の活躍。
そして、鬼太郎の父となる「ゲゲ郎」の活躍である。
さらわれた自分の妻を探すため、この村にぶらりとやってきた「ゲゲ郎」。
飄々としたその姿には、妻を取り返すという強い信念が感じられる。
また、リモコン下駄、祖先の霊毛で編んだちゃんちゃんこ等、鬼太郎のアイテムもここで生成されているのである。
しかしながら、あの目玉おやじがねこ娘を慈愛を込めた目で見ているのは、亡き妻の面差しを見出しているがゆえと言うのも理解できたのである。

・そして、奇妙な戦い。
妖怪・狂骨との空中戦(「わんぱく王子の大蛇退治」以降、東映動画のお家芸)や、鬼道衆(でました。第六期の悪辣集団)との戦いも見事なまでな「奇妙な戦い」であった。

・納得のいく「皆殺し」。
最後には、この村に関わったものは、何人かを除き、すべて殺されていく。
これは、この時代と起ったことに対する加害も被害も一切ひっくるめた「責任」が載ってきたものと感じられた。
映画「大脱走」の脱走後捕まった捕虜の皆殺しと同様の印象を受けた。
昔話なら「事の顛末を伝えるものだけが残った」となるのだが、顛末を知っているはずの水木は、記憶を失った。
おやじと母だけ、あ、それからねずみによく似た少年(彼のことである。あの日記は全部読んだはず)が顛末を知ることになるか。

・最後の大団円。
エピローグで「墓場鬼太郎」の鬼太郎誕生編の内容が、語られていた。
ほぼ全く同じ内容であるが、このストーリーを見た後、見事にシームレスで繋がっていたのである。
東京に戻り、記憶をなくしたまま、血液銀行に戻った水木が、幽霊族の夫婦と会う。
果たして、容貌が変わった「ゲゲ郎」には、記憶を失い恐怖するばかりの盟友・水木の姿がどう映ったのか。
そんなところまで、思い至ってしまった。
本当にシームレスであった。

・ちょっと気になったこと。
昭和31年頃の細かな時代考証の確認である。
1.あの時期の夏場の服装は背広ではなく、開襟シャツではなかろうか。
昔の映画等を見ると、夏場の刑事さんたちやサラリーマンは、開襟シャツで歩いている。
2.山奥までのタクシーでの移動。
自動車が通れる道路が整備されていないはずである。
山奥までタクシーで行くのは、ちょっと疑問。
ある所まで、バスで行き、最後の停留所から歩く感覚になるか。
まあ、これらすべてのことは、織り込み済み。
別の世界線、時間軸の昭和31年なんだろう。

・最後の長田時弥への救い。
狂骨となった最後の魂が孫である長田時弥少年。
彼の魂を助けることで、70年に渡る鬼太郎一家の「責任」は果たされ、見ている観客もホッとできた。

確かにロングランが続いた理由もわかるのである。

戦後を生き、戦前を学んだ世代にとっては、ちょっと興味深く面白い映画だったのである。