袋小路編。
見つかった順に書くので、順不同。
次は荒川区である。
どこへ飛ぶかは、見つかり次第である。
今回は、消えた「おたけの渡し(お茶屋の渡し)」(右岸)に向かっていた行き止り道路である。
【所在地】
荒川区町屋7。
【名称】
-
【当初の目的・機能】
「おたけの渡し(お茶屋の渡し)」に向かっていた道路。
【袋小路となった理由】
「おたけの渡し(お茶屋の渡し)」が廃止されたため。
【距離】
約110m。
【幅】
約6m。
【現在残された機能】
道路沿いの家々へのアクセス道路。
【コメント】
袋小路編、次は、荒川区にある行き止り道路である。
今まで、対象外にしてきた堤防に向かう道路の二回目。
昔の渡しの跡に至るという本来の用途が廃止されて成立した袋小路の続きである。
場所は、荒川区町屋7。
尾竹橋から荒川区側の堤防を440mほど下流に向かったところ。
尾久の方からずっと川に並走して、東に向かう道がある。
川の流れが蛇行しているのに、そのまままっすぐ西に向かい、川の堤防にぶつかる道である。
この道は、現在は、堤防沿いの公園に行き当たって行止り。
左側には、塵芥の積出施設に行く道は続くが、施設まで行くと行止りである。
人や自転車は堤防沿いに抜けられるが、自動車はどこへも行けない。
自動車にとっては、他に抜けるところのない完全な袋小路である。
古い航空写真を見ると、この公園の部分は、元は河川敷の中。この道路までがかつての陸地なのだろう。
他に抜けられる交差点から堤防までは、ほぼ110m。
幅は6mほど。
この道の現在の機能は、60mの間にある右の建物にアクセスする機能があるばかり。
堤防沿いの遊歩道に出る以外は完全に袋小路、行き止りである。
さて、この行き止り道路、いつだれが何の目的で、建設したのか。
何でこの行き止り道路があるのか、調べてみた。
まあ、冒頭にも書いたけれど、この道は、この堤防にあった「おたけの渡し(お茶屋の渡し)」に至る道路である。
この先の隅田川を対岸に渡り、今の足立区千住あたりと行き来できたルートなのである。
念のため、地図等を確認した。
明治大正、そして昭和20年頃までの地図には、「おたけの渡し(御竹渡)」という渡船場の表記がある。
Wikiには、天保年間に開設され、昭和9年の尾竹橋架橋後しばらく運行されていた記録が残ると書かれている。
尾久あたりからこのおたけの渡しに至る道は、明治初期の地図にも描かれているので、江戸時代からあった道と想定される。
左岸には、墨堤という立派な堤防があるが、右岸には墨堤にあたる堤防や土手道がない。
たぶん出水時は、今の京浜東北線の走ってい崖下までが氾濫原だったのだろうか。
確かに昔の地図を見ると、尾久や王子あたりから千住に抜ける間道だったようである。
そして、おたけの渡しが隅田川を渡る手段だったようである。
昭和9年に尾竹橋がかかっても、千住の宿に行くには、新造の橋は遠回りだったと思える。
それ故にこのおたけの渡しは、もう少し長く存続したようである。
荒川区は、区画整理がなされていないため、ほぼ明治以前の地割が残っている。
このおたけの渡しに至る間道も、たぶん江戸時代の地割のまま。
ただ人の移動がなくなり、そのままフリーズドライされて残っていると考えても問題ないか。
ひょっとすると、この地に立って今より人の往来があった往時の風景を想像するのも楽しそうだ。
見つかった順に書くので、順不同。
次は荒川区である。
どこへ飛ぶかは、見つかり次第である。
今回は、消えた「おたけの渡し(お茶屋の渡し)」(右岸)に向かっていた行き止り道路である。
【所在地】
荒川区町屋7。
【名称】
-
【当初の目的・機能】
「おたけの渡し(お茶屋の渡し)」に向かっていた道路。
【袋小路となった理由】
「おたけの渡し(お茶屋の渡し)」が廃止されたため。
【距離】
約110m。
【幅】
約6m。
【現在残された機能】
道路沿いの家々へのアクセス道路。
【コメント】
袋小路編、次は、荒川区にある行き止り道路である。
今まで、対象外にしてきた堤防に向かう道路の二回目。
昔の渡しの跡に至るという本来の用途が廃止されて成立した袋小路の続きである。
場所は、荒川区町屋7。
尾竹橋から荒川区側の堤防を440mほど下流に向かったところ。
尾久の方からずっと川に並走して、東に向かう道がある。
川の流れが蛇行しているのに、そのまままっすぐ西に向かい、川の堤防にぶつかる道である。
この道は、現在は、堤防沿いの公園に行き当たって行止り。
左側には、塵芥の積出施設に行く道は続くが、施設まで行くと行止りである。
人や自転車は堤防沿いに抜けられるが、自動車はどこへも行けない。
自動車にとっては、他に抜けるところのない完全な袋小路である。
古い航空写真を見ると、この公園の部分は、元は河川敷の中。この道路までがかつての陸地なのだろう。
他に抜けられる交差点から堤防までは、ほぼ110m。
幅は6mほど。
この道の現在の機能は、60mの間にある右の建物にアクセスする機能があるばかり。
堤防沿いの遊歩道に出る以外は完全に袋小路、行き止りである。
さて、この行き止り道路、いつだれが何の目的で、建設したのか。
何でこの行き止り道路があるのか、調べてみた。
まあ、冒頭にも書いたけれど、この道は、この堤防にあった「おたけの渡し(お茶屋の渡し)」に至る道路である。
この先の隅田川を対岸に渡り、今の足立区千住あたりと行き来できたルートなのである。
念のため、地図等を確認した。
明治大正、そして昭和20年頃までの地図には、「おたけの渡し(御竹渡)」という渡船場の表記がある。
Wikiには、天保年間に開設され、昭和9年の尾竹橋架橋後しばらく運行されていた記録が残ると書かれている。
尾久あたりからこのおたけの渡しに至る道は、明治初期の地図にも描かれているので、江戸時代からあった道と想定される。
左岸には、墨堤という立派な堤防があるが、右岸には墨堤にあたる堤防や土手道がない。
たぶん出水時は、今の京浜東北線の走ってい崖下までが氾濫原だったのだろうか。
確かに昔の地図を見ると、尾久や王子あたりから千住に抜ける間道だったようである。
そして、おたけの渡しが隅田川を渡る手段だったようである。
昭和9年に尾竹橋がかかっても、千住の宿に行くには、新造の橋は遠回りだったと思える。
それ故にこのおたけの渡しは、もう少し長く存続したようである。
荒川区は、区画整理がなされていないため、ほぼ明治以前の地割が残っている。
このおたけの渡しに至る間道も、たぶん江戸時代の地割のまま。
ただ人の移動がなくなり、そのままフリーズドライされて残っていると考えても問題ないか。
ひょっとすると、この地に立って今より人の往来があった往時の風景を想像するのも楽しそうだ。