袋小路編。
見つかった順に書くので、順不同。
次は荒川区である。
どこへ飛ぶかは、見つかり次第である。
今回は、消えた「新渡し」(右岸)に向かっていた行き止り道路である。
【所在地】
荒川区町屋5。
【名称】
-
【当初の目的・機能】
「新渡し」に向かっていた道路。
【袋小路となった理由】
「新渡し」が廃止されたため。
【距離】
約60m。
【幅】
約5m。
【現在残された機能】
道路沿いの家々へのアクセス道路。
【コメント】
袋小路編、次は、荒川区にある行き止り道路である。
今まで、堤防に向かう道路は、対象外にしてきた。
何らかの事情があって成立した袋小路ではなかったからである。
今回、隅田川の流域を確認していたら、廃止された昔の渡しの跡に至る道路が結構そのまま残されていた。
本来の用途が廃止されて成立した袋小路なので、今回取り上げることにする。
この道は、現在は、堤防に沿う遊歩道に到達して行止り。
人や自転車は堤防沿いに抜けられるが、自動車はどこへも行けない。
自動車にとっては、他に抜けるところのない完全な袋小路である。
場所は、荒川区町屋5。
尾竹橋から荒川区側の堤防を480mほど上流に向かったところ。
尾久の方からずっと川に並走して、東に向かう道がある。
この道の途中で、隅田川の堤防に向かって北へ進む道がある。
幅は5mほど。
60mほど進むと堤防に行き当たって終わりになる。
この道の現在の機能は、60mの間にある右の建物にアクセスする機能があるばかり。
堤防沿いの遊歩道に出る以外は完全に袋小路、行き止りである。
さて、この行き止り道路、いつだれが何の目的で、建設したのか。
何でこの行き止り道路があるのか、調べてみた。
まあ、冒頭にも書いたけれど、この道は、この堤防の先にあった「新渡し」に至る道路である。
この先の隅田川を対岸に渡り、今の足立区元木あたりと行き来できたルートなのである。
念のため、地図等を確認した。
明治大正、そして昭和20年頃までの地図には、「新渡」という渡船場の表記がある。
Wikiには昭和9年の尾竹橋架橋後に廃止と書かれている。
うーん、確かに隅田川を渡っても、その先が荒川放水路になって行けなければ、あまり意味がなさそうである。
この場所、おおよそ明治の頃から、荒川放水路開削以外は変化なし。
この道も荒川開削以前の新渡しのある頃は、今より多くの人の往来があったはずである。
形状は残っても、渡しがなくなり、誰も来なくなってしまい、今の方がさびれてしまった場所になっているのである。
でも、考えてみれば、渡しに至る風情がそのまま残っているのだから、過去をしのぶには良い場所と思えるのである。
見つかった順に書くので、順不同。
次は荒川区である。
どこへ飛ぶかは、見つかり次第である。
今回は、消えた「新渡し」(右岸)に向かっていた行き止り道路である。
【所在地】
荒川区町屋5。
【名称】
-
【当初の目的・機能】
「新渡し」に向かっていた道路。
【袋小路となった理由】
「新渡し」が廃止されたため。
【距離】
約60m。
【幅】
約5m。
【現在残された機能】
道路沿いの家々へのアクセス道路。
【コメント】
袋小路編、次は、荒川区にある行き止り道路である。
今まで、堤防に向かう道路は、対象外にしてきた。
何らかの事情があって成立した袋小路ではなかったからである。
今回、隅田川の流域を確認していたら、廃止された昔の渡しの跡に至る道路が結構そのまま残されていた。
本来の用途が廃止されて成立した袋小路なので、今回取り上げることにする。
この道は、現在は、堤防に沿う遊歩道に到達して行止り。
人や自転車は堤防沿いに抜けられるが、自動車はどこへも行けない。
自動車にとっては、他に抜けるところのない完全な袋小路である。
場所は、荒川区町屋5。
尾竹橋から荒川区側の堤防を480mほど上流に向かったところ。
尾久の方からずっと川に並走して、東に向かう道がある。
この道の途中で、隅田川の堤防に向かって北へ進む道がある。
幅は5mほど。
60mほど進むと堤防に行き当たって終わりになる。
この道の現在の機能は、60mの間にある右の建物にアクセスする機能があるばかり。
堤防沿いの遊歩道に出る以外は完全に袋小路、行き止りである。
さて、この行き止り道路、いつだれが何の目的で、建設したのか。
何でこの行き止り道路があるのか、調べてみた。
まあ、冒頭にも書いたけれど、この道は、この堤防の先にあった「新渡し」に至る道路である。
この先の隅田川を対岸に渡り、今の足立区元木あたりと行き来できたルートなのである。
念のため、地図等を確認した。
明治大正、そして昭和20年頃までの地図には、「新渡」という渡船場の表記がある。
Wikiには昭和9年の尾竹橋架橋後に廃止と書かれている。
うーん、確かに隅田川を渡っても、その先が荒川放水路になって行けなければ、あまり意味がなさそうである。
この場所、おおよそ明治の頃から、荒川放水路開削以外は変化なし。
この道も荒川開削以前の新渡しのある頃は、今より多くの人の往来があったはずである。
形状は残っても、渡しがなくなり、誰も来なくなってしまい、今の方がさびれてしまった場所になっているのである。
でも、考えてみれば、渡しに至る風情がそのまま残っているのだから、過去をしのぶには良い場所と思えるのである。