また無職生活を送っていると、現代の「貧乏」について考えてしまう。

昔の感覚で言えば、どこに行ってもモノは溢れ、衣食住に不足があるわけではない。
(仕事にはあぶれているが。)

なので、昔の感覚でいう「貧乏」な状態では決してない。
ただ、どこか不満足というか充足感がない。
何がないのかなあと考えてみた。

しばらく考えて、わかった。
選択肢がないのである。

例えば、ショッピングセンターで食材を選ぶ場合は「どれが美味しいか」という条件よりも「取れが安価か」という条件が先に立つ。
似たようなものなら「30%引き」のシールが貼ってあるものを好き嫌いではなく選んでしまう。
結局食べたいものは、買わない。
買えない訳ではないが、選択の条件が「安価か否か」という安直な選択肢しかなくなっている。

バイキング形式で作られる料理は、一定の客の前に、たくさんの料理を順番に出していくわけだから、要は「給食」と同じである。
こちら側が選択したものではないのである。
もし、同じスパゲティナポリタンだけしか作られてこなかったら、選択肢がなくなったのと同じである。

そうか。
この仕組みは、社会主義国のシステムである。
まずは、物があるのだから我慢しろ、という状態なのである。

考えてみれば、選択肢は一応ある。
その選択肢は、「贅沢」という選択肢である。
この選択肢は、現在の状態では選べない。
ということは、「贅沢ではない」という選択肢しか、今の一般市民には選べないのである。

考えてみれば、この状態は目に見えない「分断」のシステムかも知れない。

「贅沢できる」という選択肢のある階層とその選択肢を進んで選ばない階層である。
この層、選んだら破綻するから選べないことを知っている階層である。

ひょっとすると、今の一般市民は、海胆黒洋品店やサトーココノカドーという名の「グム百貨店」(ソビエト連邦の「物資欠乏を起こさない」国営百貨店)でわずかな消費の喜びを確認しているのかも知れない。

そう。
「贅沢でない」商品という選択肢しか選べない現在は、やはり貧困な状態なのだろう。