東京回想、文学編。

隅田川の流域にある文学歴史美術系のネタを拾いながらほぼ2Kmずつ進んでいくという記述である。

今回は隅田川右岸の5回目。
吾妻橋あたりから先へ進む。

箇条書きで短く書く。

・浅草松屋デパート。
吾妻橋の袂西側にある東武鉄道浅草駅のターミナルが入っているデパートである。
完成は1931年(昭和6年)。
この建物も、昭和の文学には、必ず出てくるところ。
何年か前に1970年代に設置された建物周囲の化粧板を取っ払い、往時のレトロスペクティブの姿が復活。
息を吹き返してきた浅草の象徴に再びなりつつあるのである。

・水上バス乗り場。
吾妻橋の橋の横にある水上バス乗り場。
行くと観光地に来た気持ちになる。

・隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)。
吾妻橋の次が東武電車の鉄橋。
正式には、隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)というらしい。
完成は1931年(昭和6年)。
電車が通る部分を少し高い位置に置き、橋梁の鉄骨で電車からの景観が妨げられないようにしたとか聞いたことがある。
橋を渡ったら、90度左にカーブするので、この橋の上は時速15Km/hくらいしか出さないのだとか。
騒々しくなくて良いのである。
今、この鉄橋の南側脇に「すみだリバーウォーク」と称した歩道が設置された。
浅草からスカイツリーまで、徒歩で回遊できるようになったのである。

・このあたりで、在原業平と「伊勢物語」。
平安時代に成立した日本の歌物語である。
「東下り」のあたりで、この隅田川周辺が取り上げられる。
「名にしをはば、いざ言問はむ都鳥、わが思ふ人はありやなしやと」という歌がこの地で歌われたことは、皆さん、古典の授業で学んだところ。
なので、墨田区に「業平(なりひら)」という地名があり、東京都の鳥は「ゆりかもめ(都鳥)」、かかる橋は「言問橋」である。
業平先生も、千年以上も経って自分の名前が遥か東国で使われているとは、想像もできなかったろうな。

・隅田公園(右岸側)。
関東大震災後の震災復興計画で作られた公園のひとつが、隅田公園である。
吾妻橋から今戸あたりまでの堤防外側に作られた約1.3Kmの公園である。
きれいな桜が咲くのである。

・蟻の街。
戦後の1950年頃に、この隅田公園の言問橋あたりに、廃品回収業者が住むようになった。
その一帯を「蟻の街」と呼んでいたとのこと。
「蟻の街のマリア」で検索すると、詳しいことを知ることができる。
今は、街そのものが8号埋立地に移動して、元の公園になっている。

・言問橋。
東武の鉄橋の次は言問橋である。
1928年完成である。

・山谷堀。
言問橋の上流に今は埋められてしまった山谷堀があった。
この堀は、そのまま進むと、吉原遊郭まで行けたのである。
このあたりも、歴史・文学によく出てくるところである。

・待乳山聖天。
その山谷堀の南側に待乳山聖天がある。
ちょっと下小山の上にあるお寺である。
ここで祭られている仏さまは、聖天(大聖歓喜天)。
ヒンズー教のガネーシャ神と同様の象の頭のお姿である。

・今戸焼。
このあたりで焼かれていた素焼きの土器を「今戸焼」という。
狸の形の小さな像も作られており「今戸焼の狸」といて有名。
明治の日本文学の試験で答に窮したら「漱石は自らのことを「今戸焼の狸」と言っていた」と書くと、「可」くらい貰えそう。

・桜橋。
山谷堀のちょっと上流が桜橋である。
1980年に作られた人道橋である。
見栄えがするのでよくテレビのロケに使われている。

・妙亀塚。
桜橋から700mほど上流の少し西に入ったところに、妙亀塚公園という公園がある。
「梅若伝説」(平安時代、吉田少将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話「台東区教育委員会の銘板より」)に書かれた梅若少年のお母さんである妙亀さんにちなんだ公園のようだ。

だいたいこのあたりで約2Kmである。

まだまだ続くのである。