東京回想、文学編。

隅田川の流域にある文学歴史美術系のネタを拾いながらほぼ2Kmずつ進んでいくという記述である。

今回は隅田川右岸の4回目。
清洲橋から先へ進む。

箇条書きで短く書く。

・北西から北東に進む。
高速両国大橋から北西に向かっていた流れはやや東に向きを変え、隅田川橋梁を超えるあたりで、北北東に向かう。

・蔵前のおもちゃ問屋街。
隅田川に並行して通る国道6号線の通るあたりはおもちゃ問屋街である。
吉徳とか久月という人形屋さんやバンダイなどのおもちゃメーカーもこのあたりにあった。
そう言えば、筆者の義理の叔母のご尊父がこの問屋さんに勤めていた。
一回家族で特別におもちゃを買いに行ったことがあったか。

・落語「蔵前駕籠」。
この通りが落語「蔵前駕籠」の蔵前通りにあたるのか。
江戸時代から栄えた通りである。

・浅草御蔵前、東京職工学校。
今の蔵前工科高校の少し手前あたりから400mほどが、江戸時代の浅草御蔵。
江戸幕府の米蔵のあったところ。
明治になってから、その南側には東京職工学校が建てられた。
今の東京工業大学である。
震災で灰燼に帰したため、大岡山に引越しである。
もしかしたら、この地にこの学校があったら、この一帯も大学街になっていた可能性があるのである。
今は、その流で蔵前工高があるだけなのである。

・首尾の松。
その蔵前工高の前あたりに、江戸時代まで「首尾の松」という松が、川に向かって植えられていたらしい。
吉原通いの船の目安になっていたとか。

・蔵前専用橋。
隅田川には人が渡れぬ橋がいくつもある。
蔵前工高の前あたりにある橋がその一つの蔵前専用橋。
1967年の完成で、電話線と水道管のみの橋なのだそうだ。
この橋のおかげで、蔵前橋を下流からは拝めなくなったのである。

・蔵前橋。
蔵前専用橋の隣が蔵前橋である。
1927年の竣工。
1984年まで国技館はこの橋の袂の蔵前通り沿いの北側にあった。
大相撲の時期に自動車で通ると、お相撲さんがよく歩いていたのである。

・蔵前変電所(浅草火力発電所)。
国技館跡にできた下水道局の隣の敷地には、東京電力パワーグリッドの蔵前変電所がある。
何の変哲もない変電所ではあるが、この敷地、歴史的に有名な場所。
1823年に浅草発電所がつくられた場所である。
東日本の電源周波数が50ヘルツになったのは、この発電所に置かれた発電機がその周波数のためだったとか。
東京の街には、いろいろな歴史が転がっているのである。

・厩橋。
蔵前変電所の先が厩橋である。
竣工は1929年。
名前の由来は「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなんだものなのだそうだ。

・駒形橋。
厩橋の隣が駒形橋である。
竣工は1927年。
名前の由来は、この場所にある駒形堂からなのだそうだ。
この駒形堂は、浅草の観音様の像が隅田川のこの場所で見つかったからとのことだそうだ。

・吾妻橋。
駒形橋の隣が吾妻橋である。
竣工は1931年。
すぐ先が金龍山浅草寺である。
最近、浅草の門前町は、インバウンドの外国人観光客の訪問で、大歓楽街に復活。
浅草のれん会のおかみさんたちは、歓喜雀躍。
お仏壇のご先祖様に「おおおかみのおっしゃっていた賑わいが戻ってきました」と報告したんだと思う。

・パンの会。
書き忘れていた。
隅田川の河畔の飲食店で、若き芸術家たちが懇談会を開いていたのだそうだ。
Wikiより抜き書き。
「20代の芸術家たちが中心となり、浪漫派の新芸術を語り合う目的で出発し、東京をパリに、大川(隅田川)をパリのセーヌ川に見立て、月に数回、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まり、青春放埓の宴を続けた。パンの会は反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場となり、1908年末から1913年頃まで続いた。」
今度一人で、隅田川周辺の安価西洋定食店で「一人パンの会」を妻と開こうかと考えるのである。

ここまででまた2Kmである。

また次へ進むのである。