東京回想、東京都内の消えた学校。
新制の都立高校の次の学校である。
機械的に区の順番で進めていく。
ここからは中野区の消えた高校である。
最初は都立四谷商業高等学校である。
統合された定時制高校の場合、統合された新しい学校のある区のところに書いていく。

【学校名】
都立四谷商業高等学校。

【統合時の所在地】
中野区上鷺宮五丁目11番1号(現・稔ヶ丘高等学校)。

【消滅年】
2007年。

【消滅事由】
他高に統合のため。

【統合後の後継校】
全日制・定時制ともに都立稔ヶ丘高等学校。

【前身学校等】
以下の歴史がある。

1924年 東京市立四谷商業実務学校として四谷高等小学校内(四谷区愛住町80番地)に創立。
1926年 四谷第六小学校(四谷区大番町73番地)に移転。
1935年 東京市立四谷商業実務学校廃止。
     東京市立四谷商業学校(夜間)となり、四谷第五尋常小学校内(四谷区三光町47番地)に移転。
1943年 都制実施により、東京都立四谷商業学校となる。
1944年 戦時教育令により、東京都立四谷商業学校廃止(生徒募集停止)、東京都立四谷女子商業学校設立。
1945年 都立杉並商業学校廃校に伴い、同校生徒30名転入学。
1946年 東京都立四谷女子商業学校、牛込女子商業学校に統合のため廃止。
     東京都立四谷商業学校復活。
1948年 新制の東京都立四谷商業高等学校になる。
1962年 全日制課程設置。
1963年 中野区鷺宮に移転。
2007年 - 全日制課程を稔ヶ丘高等学校に統合し閉課、定時制課程募集停止
2010年 - 定時制課程を稔ヶ丘高等学校に統合し閉課・閉校

【跡地利用】
東京都立稔ヶ丘高等学校。

【コメント】
東京回想・消えた学校。
ここからは中野区にあった消えた学校である。
最初は、都立四谷商業高等学校である。

Wikiにあった「東京都高等学校の廃校一覧」を参照して進める。

この高校は、Wikiに記述があった。
また、有り難いことに、60周年記念誌の中の沿革がネット上にあった。
(参照させていただきました。ありがとうございます。)

この学校は、1924年に東京市立四谷商業実務学校として設立。
関東大震災の直後である。
当初の場所は、四谷区愛住町80番地の四谷高等小学校内。
今で言うと、四谷三丁目交差点の北西側である。
夜間課程であるため、昼間の小学生が引けた後、昼働いている人たちが、勉強しに来たのだろう。
実習等がなければ、空き教室と先生と生徒がいれば、学校は成立するようである。

2年後の1926年に、四谷区大番町の四谷第六小学校内に移転。
今で言うと、中央線四谷駅から新宿へ向かう北側。
慶応大学医学部の敷地が切れる西側、新宿御苑手前の、今も同じ名前の四谷第六小学校に移動である。
ちなみに、大番町と右京町が合併して、大京町になったのだそうだ。

この場所にほぼ十年居た後、1935年に学校名が「東京市立四谷商業学校」と改称。
四谷区三光町47番地の四谷第五尋常小学校内に移転。
場所はどこかと言うと、大変である。
新宿の花園神社のすぐ北側、ゴールデン街の東側にある旧四谷第五小学校跡である。
今は、この学校跡に東京よしもとが入っているのだそうだ。

この場所に戦中戦後を通して27年間、第五小学校の夜間の時間帯にこの学校はあったのだそうだ。
1943年に都政施行のため、東京都立四谷商業学校に改称。
1944年に、戦時教育令により、東京都立四谷商業学校廃止となっている。
60年史の方には、「生徒募集停止」となっている。
その代わりに、四谷女子商業学校設立。
その後、廃校となった杉並商業学校の生徒が転入学する。
戦後の1946年に、四谷女子商業学校が牛込女子商業学校と統合のため、移転廃校。
商業高校が復活すると書かれている。
1948年、学制改革で、都立四谷商業高等学校に改称。

そして1962年に、中野区鷺宮の新校地に移転となり、この際に全日制も設立。
爾来、四十有余年、この鷺宮の地で、優秀な人材を輩出していたのである。

この学校も、先日確認した千葉大学教育学部の研究紀要「東京都における高校職業教育の展開 1956年から1970 年まで」(依田有弘)(参考にさせて頂きました)に書かれている1959年から1967年の間に、新設及び定時制課程に全日制を新設した学校は、商業6校、工業11校、農業1校のうちの一つである。

さまざまな状況を経て、2000年代である。

この学校も2000年代の「都立高校改革」で大きく変化していったようだ。
2007年に、全日制・夜間定時制ともに鷺宮、石神井、大泉、第四商業の各夜間定時制と統合。
同じ敷地に設立された昼夜間定時制(3部制)総合学科の東京都立稔ヶ丘高等学校となっている。

場所を確認する。
西武新宿線上井草駅から北に400mほどのところ。
新青梅街道沿いの北側である。

この地では、花園神社やゴールデン街に慣れ親しんだ先生たちやOBには、ちょっと郊外に来た感じになったのではなかろうか。

約100年前の四谷の地に開校し、その後、新宿・中野の地で、有為な人材を輩出してきた学校を素晴らしいと感じるのである。

そして、この地にできた新しい高校で学ぶ青年たちの未来が、前途洋洋であることを心から願うのである。

【蛇足】
梶原一騎のマンガ「愛と誠」の中に「花園実業高校」という架空の学校が出てくる。
若き日の梶原一騎がゴールデン街で飲み歩いていた頃、前を行く四谷商業の定時制の生徒たちを見て、そんな学校を想像していたのではないかと勝手に邪推しているのである。

しかし、学校側にとっては、相当迷惑なマンガだったのではないかと、今となっては、感じているのである。