東京回想、東京都内の消えた学校。
新制の都立高校の次の学校である。
機械的に区の順番で進めていく。
世田谷区の消えた高校の続きである。
次は都立世田谷工業高等学校である。
統合された定時制高校の場合、統合された新しい学校のある区のところに書いていく。

【学校名】
都立世田谷工業高等学校。

【統合時の所在地】
世田谷区成城九丁目25番1号(現・総合工科高等学校)。

【消滅年】
2008年。

【消滅事由】
他高に統合のため。

【統合後の後継校】
都立総合工科高等学校。

【前身学校等】
以下の歴史がある。

1940年 東京府立第二機械工業学校設立認可(機械科・原動機科・金属工業科・電気科)(府立工芸学校内仮校舎)。
1940年 東京府立重機工業学校に校名変更。
1941年 小石川区小石川町仮校舎に移転。
1942年 現在地に移転。
1943年 都制施行により東京都立重機工業学校に校名変更。
1944年 第二本科認可。
1947年 学制改革に伴い併設中学校設置(1949年廃校)。
1948年 学制改革により東京都立世田谷工業高等学校と校名変更、第二本科を定時制課程に改組。
1959年 附属中学校設立認可、4月1日に開校。
1970年 附属中学校の募集停止。
1973年 附属中学校を廃校。
2005年 東京都立総合工科高等学校に統廃合のため、全日制が閉課程。
2006年 定時制を募集停止。
2009年 閉校。

【跡地利用】
東京都立総合工科高等学校。

【コメント】
東京回想・消えた学校。
世田谷区の続きである。
次は、都立世田谷工業高等学校である。

Wikiにあった「東京都高等学校の廃校一覧」を参照して進める。

この高校は、Wikiに記述があり、旧公式サイト、同窓会のサイトも閲覧できた。
また、後継校等の公式サイト等を参照した。

この学校は、1940年に府立第二機械工業学校として設立し、次いで府立重機工業学校に改称。
1942年に成城に移ったようだ。
1948年に都立世田谷工業高等学校と改称している。

先日確認した千葉大学教育学部の研究紀要「東京都における高校職業教育の展開 1956年から1970 年まで」(依田有弘)(参考にさせて頂きました)をまたひもとく。

この論文によると、1950年代の都立高校の工業課程、商業課程の応募者の倍率は、何と二倍を超えていたのだそうだ。
1957年の全日制の工業課程は2.76倍、定時制でも2倍を超えていたとのこと。

それゆえに、1959年から1967年の間に、新設及び定時制課程に全日制を新設した学校は、商業6校、工業11校、農業1校だったのだそうだ。

この学校は戦前よりある学校で、伝統もあり、人気も高かったのではなかろうか。
そして、この学校には、1959年に、附属中学校が設立されている。

終戦直後に、新制高校になった際、旧の学制の下で新制中学の2-3年にあたる在校生のために、付属中学を暫定的に設置する学校はあった。
この世田谷工業高校でも存在していたが、在籍者が卒業した段階で廃校。
同じ名称の附属中学校が、再び1959年に設立されたのである。
理由は、工業高校と中高一貫で工業技術を六年間学ばせるためだった模様。

同じ年に、都立烏山工業高校が、新しい工業高等学校のモデル高校として設立されている。
この先の日本の高度成長を発展させる工業力の担い手を作り出す目的で、これらの学校は作り出されたということになる。

この高校での附属中学校設立も、中高一貫6年間で工業技術を学んだ人材を配朱するためだったと想定できる。

しかしながら、現実は、想定を常に追い越す。
これは推定だが、社会全体の底上げがなされて行った段階で、社会の方向が高校進学から大学進学へ切り替わり出した。
この附属中学校も、1970年に募集停止となり、1973年に廃校である。

ネット上で見ても、この工業高校についての記述はあまりない。

さまざまな状況を経て、2000年代である。

この学校も2000年代の「都立高校改革」で大きく変化していったようだ。
2009年に、都立小石川工業高等学校と統合して東京都立総合工科高等学校となっている。

場所を確認する。
小田急線成城学園駅から北に1.25Kmほど、京王線千川駅から南に1.5Kmほどのところ。
どこからも程よく遠い場所に、都立高校はたいてい設置されている。
東側には祖師谷公園がある。

小石川工業高校の流れを汲む先生たちやOBは、ちょっと郊外に来た感じになったのではなかろうか。

この工業高校が本来の目的を達成したのは、約10年強くらいになるか。
時代の要請が変わったことで、その学校の形もそれから25年くらいで変化したことになるようだ。

この地にできた新しい高校で学ぶ青年たちの未来が、前途洋洋であることを心から願うのである。