東京回想、東京都内の消えた学校。
新制の都立高校の次の学校である。
機械的に区の順番で進めていく。
墨田区の消えた高校の続きである。
次は都立向島工業高等学校である。
統合された定時制高校の場合、統合された新しい学校のある区のところに書いていく。

【学校名】
都立向島工業高等学校。

【統合時の所在地】
墨田区立花4丁目29-7(現・都立橘高等学校)。

【消滅年】
2010年。

【消滅事由】
向島商業高校と統合。

【統合後の後継校】
東京都立橘高等学校。

【前身学校等】
1938年 東京市立向島工業学校として開校。
(吾妻製鋼所社長故清岡栄之助氏が、「国の発展は、優秀な工業人の育成あり」と言う信念のもと、東京市に私財50万円を寄付したことにより、昭和12年(1937年)に設立)。
1943年 東京都制施行に伴い、東京都立向島工業学校と改称(類推)。
1948年 学制改革により、東京都立向島新制工業高等学校と改称(類推)。
1950年 東京都立向島工業高等学校に改称(類推)。
2010年3月 閉校。

【跡地利用】
東京都立橘高等学校。

【コメント】
東京回想・消えた学校。
墨田区の続きである。
次は、都立向島工業高等学校である。

Wikiにあった「東京都高等学校の廃校一覧」を参照して進める。

この学校も、Wikiの後継校の橘高等学校の項や後継校の正式サイトには、ほぼ書かれていない。
その代わり、Wikiの向島工業高校の項および以前の向島工業高校同窓会のサイトを参照させていただいた。

また、他の都立高校の共通の歴史を参考にする。
そして、ある程度の類推が入ることを許されたい。

設立が1938年。
昭和13年である。
日中戦争が激しくなっていく頃である。
この学校の向かい側、今の吾嬬第二ポンプ所や都営住宅、公園のある場所に「吾嬬製鋼所」という会社があった。

この会社の社長さんである故清岡栄之助氏が「「国の発展は、優秀な工業人の育成あり」と言う信念のもと、東京市に私財50万円を寄付したことにより、昭和12年(1937年)に設立」(旧・同窓会サイトより)した学校なのだそうだ。

実は、その後の歴史は、記載がないので他の都立高校の歴史から類推である。

1943年に、都政施行により「東京都立向島工業学校」に改称(類推)。
1948年に新制高校として「都立向島新制工業高等学校」に改称(これも類推)。
1950年に「東京都立向島工業高等学校」に改称(これも類推)。
このあたりは、都立高校の基本的なパターンを取ったと想定される。

この学校も、2000年代の都立高校「改革」により、閉校となる。
2010年に、近くの都立向島商業高等学校と統合し、都立橘高等学校になったのだそうだ。
「生産・流通・消費に関する経済社会の仕組みやそれに関わる基本的な知識、技術を習得し、さまざまな職種や業務内容に対応できる社会人を育成するとともに、広い視野を持って産業界の動向を把握しうる人材の育成を目指す」高等学校として設置されている。
そして、向島工業高校は、2010年に閉校となっている。

場所は、東武亀戸線東あずま駅から北東に240mほどのところ。

清岡栄之助氏の願いは、形は変われど、今も脈々と続いている気がする。
地元の人にしてみても、親しみや懐かしさのある学校なのではないか、と感じるのである。

創設の地で80年以上続いている学校に、これからもたくさん良いことがあることを願うのである。

【蛇足】
この学校を作った清岡栄之助氏が経営していた吾嬬製鋼所。
実は、筆者の義理の叔父(父の妹の配偶者)が勤めていた会社なのである。
昭和8年(1933年)生まれで存命。
先日の叔母の葬式の時に会って、この話を聴いた。
この叔父が勤めていたのは1960年代前後以降。
この時期になったら、もうこの学校の歴史は「そんな話を聴いたことがある」というレベルでしか伝わっていなかったようだ。

ちなみに、この吾嬬製鋼所、1975年頃に仙台に移転となった。
この叔父一家もその移転に伴い、仙台に行くことになったのである。

墨田区の少年野球チームで王貞治(叔父の言葉では「ラーメン屋の貞坊」)と一緒に野球をしていた叔父は、今、仙台で元気に過ごしている。

さて同様にこの時期、東京から会社の都合で日本全国に散って行った東京生まれ東京育ちの人たちがたくさんいるのである。
皆さん、ご壮健であることを願っているのである。