東京回想、東京都内の消えた学校。
新制の都立高校の次の学校である。
機械的に区の順番で進めていく。
新宿区の消えた高校の続きである。
まずは都立小石川工業高等学校である。
統合された定時制高校の場合、統合された新しい学校のある区のところに書いていく。

【学校名】
都立小石川工業高等学校。

【統合時の所在地】
新宿区富久町22-1(現・都立総合芸術高等学校)。

【消滅年】
2008年。

【消滅事由】
世田谷工業高校と統合。

【統合後の後継校】
東京都立総合工科高等学校。

【前身学校等】
以下の歴史をたどっている(wiki、東京都立工業高等学校長OB会会報等より)。
1918年 東京市立第四工業補習学校として、小石川区竹早町109(現在の文京区小石川5-9竹早公園)に開校。
    (小石川高等小学校に併設)。
1921年 東京市立第四実業学校と改称。
1928年 小石川区同心町20(現在の文京区春日2-9-5文京区立茗台中学校)へ移転。
1932年 文部省告示により乙種工業学校となり、東京市立小石川工業学校と改称。
1943年 東京都制施行に伴い、東京都立小石川工業学校と改称。
1945年 小石川区林町44(現在の文京区千石2-36-3文京区立林町小学校)へ移転。
1946年 東京都立本郷工業学校及び東京都立国立工業学校を統合。
1948年 学制改革により、東京都立小石川新制工業高等学校と改称(類推)。
1949年 新宿区市谷冨久町へ移転。
1950年 東京都立小石川工業高等学校に改称。
2008年3月 閉校。

【跡地利用】
都立総合芸術高等学校。

【コメント】
東京回想・消えた学校。
新宿区の続きである。
次は、都立小石川工業高等学校である。

Wikiにあった「東京都高等学校の廃校一覧」を参照して進める。

この学校も、Wikiの後継校の総合工科高等学校の項や後継校の正式サイトには、ほぼ書かれていない。
その代わり、Wikiの小石川工業高校の項を参照させていただいた。
それから大変に役に立ち、有り難かったのが、「東京都立工業高等学校長OB会会報」と言うサイト。
学校名で検索すると、工業高校に関連のある学校の場合、すぐに当たってくるのである。
都立の工業高校の歴史的な経緯を確認するには、このサイトは有り難いのである。

また、他の都立高校の共通の歴史を参考にする。
そして、ある程度の類推が入ることを許されたい。

設立が1918年。
大正7年である。
シベリア出兵と米騒動の頃である。
「赤い鳥」の創刊もこの頃である。
当初は前述通り、「東京市立第四工業補習学校」として設立。
小石川高等小学校に併設されたようだ。
今の文京区竹早公園のある所である。

1921年に「東京市立第四実業学校」に改称となっている。
1928年におよそ400m南側の現在の茗台中学校の場所に移動。
1932年に「東京市立小石川工業学校」に改称。
1943年に、都政施行により「東京都立小石川工業学校」に改称。
1945年に約1.1Km北側の現在の林町小学校の敷地に移動。
戦後の1946年に、東京都立本郷工業学校及び東京都立国立工業学校を統合している。
1944年に商業学校を廃止または工業学校・女子商業学校等に改編する政令等により、できた学校をこの時期統合したようだ。
「東京都立国立工業学校」は、第五商業学校から改編された工業学校と想定される。

1948年に新制高校として都立小石川工業高等学校に改編(これも類推)。
1949年に富久町に移転。
1950年に東京都立小石川工業高等学校に改称している(これも類推)。
このあたりは、都立高校の基本的なパターンを取ったと想定される。

この学校も、2000年代の都立高校「改革」により、閉校となる。
2008年に、都立世田谷工業高等学校と統合。
大学進学を視野に入れた進学重視型の工業系専門高校の東京都立総合工科高等学校が設置されたようだ。
そして、2008年に閉校となっている。

元の場所は、靖国通りの富久町の交差点から東京医科大通りを200mほど進んだところである。
現在は、都立総合芸術高等学校がその敷地に建っている。

比較的、工業高校系の方が資料が多くあり、調べるのは楽であった。

新宿区を離れ、新しい成城の地での新しい展開を心から願っているのである。