何やら上方漫才の立派な方が、性被害の問題でトラブルになっているらしい。


それが事実であるかどうかは、置いておく。


実は、もうこの漫才師の番組は見ていない。

尊大すぎて、面白くないのである。

痛々しさが先に立ち、見るに耐えないのである。


なんて言えば良いのだろう。

漫才師が観客に見せる面白い人間であること、楽しいことを話してくれる人であることが感じられなくなってきたのだ。


たしかに若手から中堅、大御所になっていく段階で、かつての芸風を壊して次へ進むことはある。


でも、彼は自分を芸術家、アーティスト、先生と思ってしまったのではなかろうか。


以前、山藤章二が彼の態度に怒りの言葉を書いていたことがあった。


確か、対談の待ち合わせに相当な時間、遅れてきたのだそうだ。


はっきりは思い出せないが、アーティストとして遅れるならば許せるが、芸人として遅れることは認められないと言ったのだったか。(記憶モード)。


アーティストと芸人。

うまく使い分ける必要がありそうである。

足立の大師匠はその部分をうまく使い分けている。


だから、町中で見かけたら、彼に手を振って声をかけることは誰でもできそうである。

多分、師匠自身が、そういう意識を持っているのだろう。


名前を使い分けるのも、一つの手段かもしれない。


どうも、今回の上方の師匠の神経質さ、尊大さは、決してそのような気楽さ、気楽に声をかけてもらえるようなキャラクター作りはできていない気がする。


アーティストの部分が突出したのかもしれない。


アーティストと芸人の部分を混同していると、最後はこうなる見本のように感じる。


まずは経緯を見守るのである。