昔の神戸電鉄(駅・レール・種別・最高速度) | 復活 裏六甲の謎のオサーン 教祖(@兵庫県産)でっす!

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何にでも切り込んで一杯書いていきます。めざせしょこたん超え!

まいど

教祖でっす😀

 

はい。

裏六甲はみぞれが降り続いています。

寒いです。

 

そんなわけで、

昔の神戸電鉄について覚えてる範囲で。

 

まず、神戸電鉄は兵庫県神戸市、三木市、小野市、三田市に路線を持つ

中小私鉄で、六甲山系を縦断するため急勾配、急曲線の割合が高いことが特徴でありながら、同じ急勾配路線の箱根登山鉄道や南海高野線(橋本〜極楽橋)、叡山電鉄より大量輸送で速度も高め。

 

神戸電鉄の車両(5000系 1994年〜)

 

そんな神戸電鉄に初めて乗車したのが昭和50年頃。

祖父に連れられて高速神戸から湊川によく行ってました

(いうても神鉄は新開地から湊川の1駅だけですが)

 

本格的に乗車したのは1978年頃と記憶しています。

粟生線で帰り(粟生→新開地)の車番は1117号でした。

この1117号はいち早く保存車となりカコテクノスへ譲渡されています。

粟生線は横にもう一本線路を増設中(複線化)の最中でそれが印象的でした。

 

そして1979年頃から神鉄沿線に移住(三田線沿線)するため

乗る機会が増えました。

以下は三田線、有馬線を中心に記憶を辿ってみます。

 

1980年3月、尼崎から神鉄三田線沿線に引っ越ししましたが

最初の印象はとにかく寒い👼

 

そして阪急と違い

電車は3両〜4両編成(三田線:4両は道場南口まで)なのに違和感。

 

【ダイヤ】

ダイヤは1980年時点で五社駅発は朝7時台でも3本のみ。

通勤時間帯の急行はすべて「通勤急行」で停車駅は三田〜有馬口の各駅と唐櫃台、大池、山の街、北鈴蘭台、鈴蘭台、湊川でした。

有馬口で有馬温泉発の普通か準急に接続しており、有馬口から南は倍以上本数がありました。

 

昼間は急行が1時間毎に運転されており

停車駅は三田〜有馬口の各駅と唐櫃台、大池、鈴蘭台、湊川と絞られていました。

五社駅から新開地は33分で到達(現在は停車駅が増えて38〜39分程度)してました。

 

ただ昼間は毎時00分(普通有馬)、10分(急行三田)、32分(準急か普通道場南口)

のみが基本で、時折谷上や岡場止まりが間に入るっちゅうダイヤでした。

 

終電は長らく新開地発三田行が22時54分、有馬温泉行が23時30分でした。

地下鉄北神線がない時代ですからみんな新開地ルートでした。

 

すくないですねえ〜

 

【車両】

1979年当時では車内ポスターで今年度は8両の冷房車を新造しますってPRしとったのをおぼえてまして、その車両が1350系4両と3000系(お召し列車に使用された3010F)だったと記憶しています。

冷房車はそれまで3000系の4本のみでしたのでそれ以外は灼熱の扇風機車でした。

まあ、なかなか冷房車は来ませんでしたな。

 

以後は3000系とともに1350系を増備してましたな。

冷房車が100%になったのは平成になってしばらく経ってからって記憶しています。

 

また車体更新車15両(800系)も活躍しており、昭和初期の吊り掛けモーターの音が渋かったねー。

このように現在とはかなり違う布陣で輸送に臨んでました。

 

時代は電機子チョッパ制御の黎明期で阪急ですら入り始めた時代でので

神鉄にはそんなものはありません。VVVF車が入るのも1994年までまたなくてはなりません。

 

【駅】

駅は1979年時点では公園都市線以外の駅は開業しており、菊水山駅も健在でした。

そしてその設備ですが、湊川、長田、丸山、鵯越、鈴蘭台、北鈴蘭台は水洗トイレでそれ以北は有馬温泉駅を除きすべてが汲取式便所でした。またその多くは男女共用。時代の流れですなー😃

平成3年頃から順次水洗化工事されて、今は全駅水洗化されてますなあ。

 

現在と大きく姿が変わったのが谷上駅、岡場駅、横山駅でした。

特に岡場駅は現在は高架2面4線で駅前も発展していますが、1979年頃の岡場駅は地上に2線のみの交換駅があるのみ、駅付近には店舗とかもなく近藤病院(のちの甲北病院)があるのみでした。

 

また谷上駅は山間部の交換駅で、現在のように全国チェーンの外食店などもなく、ひたすら山間の小駅でした。

横山駅は公園都市線と分岐してなかったので、運転本数は1時間2本のみでした。

 

また駅には自動改札機がなく、自動券売機も三田線の駅にはなく硬券の手売りでした。

また田尾寺と二郎は無人駅でその他には駅員がいました。

(今は有馬口、岡場、三田以外は無人ですもんね)

 

まだICカードどころか、磁気カードもはいってませんでしたからねー(^O^;)

阪急の駅に乗り越すときは端の駅員さんのいるところを通らんとあきませんでした。

 

【軌道(レール)】

1928年に湊川〜有馬温泉、三田までが開通したときは鈴蘭台までが複線、それ以北は単線でした。

当時のレールは1mあたり30〜37kgの10m(短尺)レールで、特に戦後は25mやロングレールが主流になっていきます。

有馬線では1965年から66年にかけて鈴蘭台〜有馬口を複線にしていて、ネットで調べても出てきませんが、概ね今の下り線が開業時のレールのまま使用され続け、上り方面は40kgレールの25m(定尺)で複付けされました。

その下り線(開業時の短尺)は使用50年を超え、痛みが激しくなり1982年頃から本格的な交換が始まりまして昭和59年頃には50キロレールの定尺に更新されました。

三田線でも全線にわたり短尺レールが使用されてましたが、有馬線とほぼ同時に更新されました。

現代ではローカル私鉄でも短尺レールは珍しくなりほとんど見ませんが、昭和50年代は普通にありました。

 

【最高速度】

昭和3年の開業時からすでに60キロであって、これは昭和63年まで続きました。

短尺レールの長尺・重軌条化と昭和63年の北神急行開業に合わせ「特急」が新設されまして、そのときに70キロにスピードアップしました。

神鉄としては最終的に時速80キロまで最高速度を上げる計画を進め、徐々に80キロ化されていきます。

ただ福知山線の脱線事故を境に余裕時間を組むようになり、限界いっぱいの速度での運転は2001年から4年程度の命でした。

インバーター以外の古い車両は低出力で時速80キロダイヤに無理やり対応させていましたがはち切れそうなモーター音で必死でダイヤに合わせていました。