私は以前
一向一心に弥陀をたのめば信心は決定する
とお伝えしました。
それは以前の記事に、助かるのは今であり、その方法は聞く一つであり、南無阿弥陀仏の念仏以外にないとお伝えしました。
仏説無量寿経 | かとチャンと仏教ブログ (ameblo.jp)
これを聞くと、なんだ南無阿弥陀仏と称えれば、信心を頂けるのかと勘違いする人も出るでしょう。
それは大間違いであることを、蓮如上人は『御文章』の中で、言葉を尽くして教えてゆかれました。
「皆人の心得たる通は、何の分別もなく、口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおおきに覚束なき次第なり」
(5帖目11通)世間の人は、念仏に何の区別もせず、ただ称えてさえいれば、死んだら極楽と思っていますが、それは大きな誤解です。ここで蓮如上人が強調されているのは、自力の念仏では報土へは往けないということであり、称える必要はないとは、どこにも書かれていません。
と戒めてゆかれました。
それに対して「たのむ」は御文章のいたるところに詳しく解説されています。
その例をいくつか挙げて見ましょう。
◎さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず
(御文章4帖目14通)
◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり
(御文章1帖目15通)
◎さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず
(御文章4帖目14通)
このように御文章からたのむを挙げたらきりがありません。
皆さんは「たのむ」と聞いて、「お願いする」と解釈される方がほとんどです。
しかし親鸞聖人・蓮如上人においては、「たのむ」は「弥陀の誓願(お約束)を全身全霊で信じすべてお任せする」と言う意味で使われます。
こちらからお願いするでは自力の信心になってしまいます。
弥陀の本願は阿弥陀仏から賜った
われをたのめ
必ず救う
のお約束(他力の信心)なのですから、そこに私(わたくし)は1ミリも入りません。
そこを間違うと何年仏教を聞いても、助からなくなってしまいます。
浄土真宗で最も大切な言葉に「領解文」があります。
親鸞聖人の教えを聞いて、どのように理解したかを宣言する言葉です。
この領解文の中にも「たのむ一念」と言われています。
その部分の領解文を引用します。
もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」と たのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。
この御ことわり聴聞申しわけ候こと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と、有難くぞんじ候。
この上は定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもり申すべく候。(領解文現代語訳)わたしは、いのちの行方を自分の力だけでなんとかしようとする心を振り捨てて、阿弥陀如来の救いの働きに一心におまかせします。
阿弥陀如来におまかせし南無阿弥陀仏と念仏する者は、救われることが決定し、その後の念仏は、阿弥陀如来のご恩に報いる行いであると、喜びのうちにお称えします。
信心が正しく救いの種となり、信心を得たのちの念仏は阿弥陀如来のお徳に感謝する念仏と受け取れるようになったのも、親鸞聖人のおかげであり、私にご縁をくださった多くの方たちのおかげであります。
このように受け取らせていただいたからには、ご恩に報いる生活を送れるように、傲慢にならず、卑屈にもならず、遠慮もせず、気ままもせず、おおらかに、しかし慎みぶかく生きようと心がけます。
「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」が、安心の段といわれる部分です。
またたのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、と
「往生一定」については、
往生の信心と申すことは、一念も疑ふことの候はぬをこそ、往生一定とはおもひて候へ。(御消息)
とあるので、「おもひ」も「ぞんじ」も同じ意味で使われています。
「往生一定の思い」になれたかなれないかと、自分の「思い」に振り回されると出口が見えなくなってしまいます。
「どう思ったら正解か?」という「思い」はどう思っても間違いです。
蓮如上人が「思う」と言われるのは、阿弥陀仏の仰せのままを思うということです。
「我が浄土に生まれるとおもえ」の仰せを聞いて、往生一定と思われるものです。
しかし、阿弥陀仏の助ける法をなしに何かを思ってもそれは自力の妄念に過ぎません。
往生一定御たすけ治定と思うのは私ですが、法の方から思わせられるものなのです。
本願招喚の勅命のままが、私の心の上に現れた「思い」ですから、他力の信心と言われます。
その「思い」は、24時間ずっと「思い」として「思い続けられる」というものではありません。
とはいえ、自力の信心と違って、「思う」時も、忘れて暮らす時も信心はあります。
勅命を聞いて疑わない信楽があります。
昔の人の例えで、それを大海に流れ込む木に例えました。
川に流れる木は、浮かんで見える時もあれば、沈み込んで見えない時もあります。
しかし、川の中にある木ですから最後は大海に流れ込みます。
浮かんで喜ぶ時も、沈んで忘れた時も、念仏を称える時も称えない時も、真実信心が臨終まで通って浄土へ届きます。
「往生一定御助け治定とぞんじ」とは、私が自分で思うのでなく、勅命のままに思うということです。
仰せを聞いて疑いない上は、喜ばずに暮らす時も、喜んでいる時もその信心を守ってくださいます。
南無阿弥陀仏と申して、仰せを聞いて、本願を常に思いなさいよと領解文でも勧められているのです。
このように聞くと
往生するのは、並大抵のことではない、かとチャンは簡単というけれど私には無理だ
と思うでしょう。
蓮如上人もそのことはよくご存じで御文章 二帖目 第七通に安心についてこう仰っています。
この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あらやうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。
さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。
あら、こころえやすの安心や。また、あら往きやすの浄土や。これによりて、『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。
この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。
この一念(一心一向)の安心(信心)一つで、往生することを思えば、何と難しいこともない獲りやすい安心でありましょうか。
だから安心という二字を、「やすきこころ」と読むわけなのです。まったく何のはからいもいらず、一心一向に如来をおたのみする信心一つで極楽に往生できるのです。
何と心得やすい安心でありましょうか。また、何と往きやすい浄土でありましょうか。だから『仏説無量寿経』には、「易往而無人」とこのことを説いてあるのです。
この経文の意味は、「安心(信心)を獲って弥陀を一向にたのめば、浄土へ参ることはたやすいけれども、信心を獲る人が稀であるので、浄土へは往きやすけれど(往く)人なし」ということであります。
と仰って私たちに注意喚起されています。
易往而無人(いおうにむにん) | かとチャンと仏教ブログ (ameblo.jp)
私たちも自力の心を振り捨てて、早く他力の信心をいただきましょう。