このように、阿弥陀仏の本願を疑いなく信じて、弥陀をたのむしか私たちが救われる道はないのだよと親鸞聖人は教えてゆかれました。

 お釈迦様はこの真理をどのように教えてゆかれたのでしょう。

 お釈迦様の真意は『仏説無量寿経(大無量寿経)』に説かれています。

 弥陀の本願は根本ではあるが至極の教えは「本願成就文」であると、親鸞聖人は教えを明らかにされています。

 それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり(『教行信証』教巻)

“釈迦の一切経の中で、唯一真実の経は『大無量寿経』である”

 また

「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり(『教行信証』信巻)

“阿弥陀仏の本願を説き明かされた、釈尊の「本願成就文」の教えこそが、時空を超えた完全無欠の真実の教えである”

ともおっしゃっています。

 

 釈尊の説かれた「本願成就文」の教え以外に、仏教もなければ浄土真宗の教えもないということがお分かりになるでしょう。

 では「本願成就文」とは、どんな教えでしょうか。

「本願成就文」の教えは、『大無量寿経』下巻に、漢字、四十字で説かれている釈尊のお言葉です。

 

 では「阿弥陀仏の本願」と『本願成就文』は何が違うのでしょうか。

 

 阿弥陀仏の本願では、信心で助かるのか、念仏で助かるのかハッキリしません。

 だが、釈尊の「本願成就文」で、念仏は説かれず信心歓喜乃至一念の信心一つで助かることがハッキリします。

 これによって、親鸞聖人は唯信独達の法門を樹立されたのです。

 

 次に、阿弥陀仏の本願では、どうすれば救われるのかハッキリしません。

 それが、釈尊の「本願成就文」では

聞其名號その名号を聞きて」と、聞く一つで助かることがハッキリします。

 これによって、「仏法は聴聞に極まる」と親鸞聖人や蓮如上人は教えられているのです。

 

 また、阿弥陀仏の本願には、必ず助けると誓われていますが、この世でか、未来世(あの世)でかハッキリしません。

 それが釈尊の「本願成就文」で、即得往生住不退転と、弥陀の救いは死後ではなく現在であることがハッキリします。

 

 このように釈尊の「本願成就文」の教えによって親鸞聖人は、阿弥陀仏の救いは「唯信独達」であり、弥陀の救いは「聴聞に極まる(聞く一つ)」であり、弥陀の救いは「平生業成」であることを明らかにされたのであります。

 ここに親鸞聖人が、「本願成就文」をもって仏教の至極となされた理由があるのです。

 この本願成就文が示されたことによって、法蔵菩薩の誓願が完成していることが明らかになり、私たちの「後生の一大事」も明るく、大安心・大満足の心になるのですね。