三日月キャロット 8
「坂之上さんにストーカーされているみたいなの」
私は口に運ぶ寸前のおでんをお皿に戻して、三木さんを見た。彼女はテーブルに目を落としたままで、私の目線はなぜか、三木さんの綺麗な首筋の肌に向った。
私と三木さんが五反田駅に着いた時に、彼女が私に相談があると言ってきたので、彼女が住む戸越銀座駅で一緒に下りた。そして、駅近くのカジュアルな居酒屋に入ってから、20分も経っていない時だった。
私が二杯目の生ビールを注文したところで、彼女が話をし始めた。
「坂之上さんって、サカさんのことだよね?」
私は確認するように聞いた。彼女は黙って頷いた。私は視線を彼女の首筋から、顔に向けた。
彼女の話によると、坂之上さんからの交際の申し込みを断った後、何度か彼にストーカー行為をされたそうだ。
私はさすがに驚いた。あの気さくな坂之上さんが、ストーカー行為をしている姿は想像できなかったからだ。
彼女はうつむいたまま私の言葉を待っているようだった。とにかく、私は彼女を安心させる言葉を探そうと必死だった。アルコールがいい具合に、脳を回し始めている時でもあった。
「今度、サカさんに話しておくわ、もちろん止めるようにね」
「ありがとう。このこと相談できるのまさくんだけなんだ」
三木さんは少し顔を赤らめた。彼女はそれを隠すように頬にお絞りを当てた。
私は話題を変えるために、彼女にいろいろな事を質問した。大学のこと、好きな映画、好きな服のブランド、どれも普段の三木さんから容易に想像できる答えだった。彼女は一つ一つ質問を答えるうちに、先ほどの表情とはうって変わって、明るい表情で私を見つめるようになった。
私は彼女の表情を見つめながら、坂之上さんのことを考えていた。彼は三木さんの後を追いかけ、彼女の弾力性に富むお尻を見つめて何を思ったのだろうか、私は男が好きな女に抱く宿命的な本能を妬んだ。
「終電だな もうそろそろ」
近くのサラリーマン風の人達がそういって店を出て行った。私もそのことを知っていたが何も言わなかった。彼女は相変わらず、学校での出来事を楽しそうに話していた。
その晩、私は三木さんの家で彼女を抱いた。私は初めての経験にかなり緊張したが、三木さんも初めてだったようで小刻みに震えていた。
彼女の乳房を掴みながら、小さい唇を吸った。陰部に入れた後は、彼女の顔を見つめた。必死に唇を噛み、痛さを堪えていた。
そこには、愛も憎悪もなかった。ただ客観的な事実が部屋の空間を占めていた。私は最後までやる気がしなかったので、途中で行為を止めて、彼女の横に寝転んだ。
彼女の荒い息が部屋に響いていた。一定のリズムで部屋の空気を揺らしていた。私は彼女の首筋に口付けをした。そして、そのままの姿勢で目を閉じた。
彼女の首筋から匂うフルーティな香りを浴びながら、その晩は三木さんの家で一夜を過ごした。
窓から見える月がギラギラと輝き、私達をただ傍観していた。
数日後、三木さんは首をしめられて殺された。
三日月キャロット 7
次の日から、各講座のガイダンスを聞いて、使用する教科書を学内の書店で購入したり、部活やサークルの熱心な勧誘があったりと、忙しい気分を味わった。
そんな慌ただしい日が、一週間ほど続き、間もなく通常授業が始まった。
大学の授業というものは、教授が黒板に延々と式や用語を羅列するだけのもので、よく見ると、教科書に書いてることばかりだった。
私は外から見える新宿の大きなビルに目を移していた。
規則正しく並ぶビル群が故郷にある畑の大根や人参のように見えた。私のなけなしの向上心が新宿のビル群に吸い込まれて行くような気がした。
「終わったな・・」私は、心の中で呟いた。
それから二,三週間もしないうちに。ほとんどの講義に出席しなかった。
大学に行かないと、それはそれで一日中暇なので、五反田のファーストフード店でアルバイトを始めた。
仕事の内容はレジからのオーダーを聞いてマニュアル通りにハンバーガーやデザートを作るだけの簡単なものだった。
店で働く人たちは実に様々で、フリーター、学生など若い人が多かった。六十才台の人も三人いて、あと中国人とバングラディッシュ人もいた。
バイトに慣れてきた七月の下旬頃、タイムカードを押そうとした時に、元気な声が後ろから聞こえた。
「まさくん おはよう」
後ろを振り向くと三木さんが元気よく手を振っていた。三木さんは文京区にある女子大に通い、その明るさと気品のよさで、バイトの男連中の中でもかなり人気が高かった。
「今日はラストまで?」
いきなり三木さんに声をかけられ、私は顔が赤くなるのを隠すように頷いた。
「まさくんの家は石川台だよね? 途中まで一緒に帰ろうよ」
少し厚く、健康的な輝きと弾力性に富んだ下唇が私の滅多に活動する事のない神経を刺激していた。
ドーパミンが満遍なく脳を一周したところで、私はOKの合図を送った。
彼女は何もなかったように他の人にも挨拶をしながらカウンターに消えていった。
「顔赤いぞ」
背後から坂之上さんが私の肩をたたいた。
「サカさんっいたんですか、おはようございます」
彼はフリーターの坂之上さんでみんなからは"サカさん"と呼ばれており、私より年が五つ年上だが話し掛けやすく、気さくな人だった。
「会話聞いていたぞ、彼女は一人暮らしだから、がんばりなよ」
「がんばるって、何を?」
「コラコラ」
そういって、坂之上さんは私の股間を叩くフリをした。
その日は、閉店まで何かと三木さんの存在が気になり、つい彼女を見入ってしまっていた。
夕方になって増えるサラリーマンに愛想よく注文を聞く彼女は、活力ある魚のようにカウンター一帯を支配していた。
客から聞いたオーダーを透き通った声で厨房に告げる彼女の声が店内に心地よく響いていた。
勢いよく吸い込むと、今にも感じれそうな彼女の体臭を厨房にいた私を含めた男達は、密かに嗅いでいるのであった。
閉店後のキッチンの掃除も終わり、私服に着替え、足早に三木さんとの待ち合わせの場所に向かった。
胸が躍り、足が三本あるような気持ちだった。
しばらくして三木さんが小走りでやってきた。
彼女の大きな胸がシャツの下で踊り、私の脳細胞もそれにあわせるように活発に動き出した。
そんな慌ただしい日が、一週間ほど続き、間もなく通常授業が始まった。
大学の授業というものは、教授が黒板に延々と式や用語を羅列するだけのもので、よく見ると、教科書に書いてることばかりだった。
私は外から見える新宿の大きなビルに目を移していた。
規則正しく並ぶビル群が故郷にある畑の大根や人参のように見えた。私のなけなしの向上心が新宿のビル群に吸い込まれて行くような気がした。
「終わったな・・」私は、心の中で呟いた。
それから二,三週間もしないうちに。ほとんどの講義に出席しなかった。
大学に行かないと、それはそれで一日中暇なので、五反田のファーストフード店でアルバイトを始めた。
仕事の内容はレジからのオーダーを聞いてマニュアル通りにハンバーガーやデザートを作るだけの簡単なものだった。
店で働く人たちは実に様々で、フリーター、学生など若い人が多かった。六十才台の人も三人いて、あと中国人とバングラディッシュ人もいた。
バイトに慣れてきた七月の下旬頃、タイムカードを押そうとした時に、元気な声が後ろから聞こえた。
「まさくん おはよう」
後ろを振り向くと三木さんが元気よく手を振っていた。三木さんは文京区にある女子大に通い、その明るさと気品のよさで、バイトの男連中の中でもかなり人気が高かった。
「今日はラストまで?」
いきなり三木さんに声をかけられ、私は顔が赤くなるのを隠すように頷いた。
「まさくんの家は石川台だよね? 途中まで一緒に帰ろうよ」
少し厚く、健康的な輝きと弾力性に富んだ下唇が私の滅多に活動する事のない神経を刺激していた。
ドーパミンが満遍なく脳を一周したところで、私はOKの合図を送った。
彼女は何もなかったように他の人にも挨拶をしながらカウンターに消えていった。
「顔赤いぞ」
背後から坂之上さんが私の肩をたたいた。
「サカさんっいたんですか、おはようございます」
彼はフリーターの坂之上さんでみんなからは"サカさん"と呼ばれており、私より年が五つ年上だが話し掛けやすく、気さくな人だった。
「会話聞いていたぞ、彼女は一人暮らしだから、がんばりなよ」
「がんばるって、何を?」
「コラコラ」
そういって、坂之上さんは私の股間を叩くフリをした。
その日は、閉店まで何かと三木さんの存在が気になり、つい彼女を見入ってしまっていた。
夕方になって増えるサラリーマンに愛想よく注文を聞く彼女は、活力ある魚のようにカウンター一帯を支配していた。
客から聞いたオーダーを透き通った声で厨房に告げる彼女の声が店内に心地よく響いていた。
勢いよく吸い込むと、今にも感じれそうな彼女の体臭を厨房にいた私を含めた男達は、密かに嗅いでいるのであった。
閉店後のキッチンの掃除も終わり、私服に着替え、足早に三木さんとの待ち合わせの場所に向かった。
胸が躍り、足が三本あるような気持ちだった。
しばらくして三木さんが小走りでやってきた。
彼女の大きな胸がシャツの下で踊り、私の脳細胞もそれにあわせるように活発に動き出した。
三日月キャロット 6
私は約三年前に兵庫から上京してきた。大学は半年も持たず、一年の後期から大学にいかなくなった。
現在は、ただ三軒茶屋駅に彼女を迎えに行くだけの生活になっていた。そんな生活に、何の違和感も覚えない。
むしろ、頭のいいフリをして大講堂に歩く自分はもう想像することができなくなっていた。
私の中では大学というカテゴリーは既に、異文化になっていた。
入学式の後、指定された教室でクラス単位の集会があった。
「それでは一人ずつ自己紹介してください」
司会役の在学生に促されて、新入生が一人ずつ出身地や趣味などの自己紹介を始めた。
私は部屋に入る時に配られた名簿を見ながら順番を待った。私の番号の前の人の自己紹介が終わり、私の番が来た。
足早に黒板の前に立ち、同じクラスの人達の顔を見まわした。そこには受験マシーン化した彼らが腐った目を光らせていた。
「兵庫県から来ました南川正文です。まだこっちに来て日が浅いので、友達もいませ ん。どうぞ仲良くしてください」
まばらな拍手が終わり次の人へと続いた。
その後、クラス単位の飲み会が渋谷で行われた。東京にきて間もなかった私は、渋谷の人ごみを見るのは初めてだった。
特大モニターにはミュージックビデオが流れ、原色のネオンがきらめいていた。道行く人の表情は強張り、皆同じような歩調で夜の渋谷の町を切り裂いていた。
私は波打つ胸の内を悟られまいと無表情に歩きながら、目だけを機敏に動かした。
そして、生徒たちは関西にもあるチェーン店の居酒屋に入った。
店内は外以上に騒がしく、全ての人が同じ顔に見えた。
私はトイレに近い席に座り、メニューを眺めた。全く見覚えのあるメニューだった。
両隣の学生は対前の人と話を始めていた。私は、届けられたビールを乾杯することなくグラスを口に近づけた。横の学生の視線を感じたが、一気に飲み干した。
対面の男子学生がタバコを吸い始めたので、私は席を立った。
両隣の学生が怪訝な顔で僕を見たので、僕はトイレを指差した。それを見た彼らは微笑した。
私はトイレを済ました後、先ほどの席には戻らずに、他の空いているテーブルの席に腰を下した。
座ると同時に、ニキビ後のある男子学生が顔を近づけて口を開いた。
「おい、こんな中途半端な大学なんて世間の誰も相手にしてくれんぞ」
彼の言葉でそれまで騒いでいた学生達がコンセントを抜かれたロボットように沈黙した。店員の威勢のいい声が私達のテーブル一帯を駆け抜けた。
私はその日、飲めるだけ飲んで、吐けるだけ吐いた。クラスの誰一人の名前を聞くこともなく、私は家路に着いた。
現在は、ただ三軒茶屋駅に彼女を迎えに行くだけの生活になっていた。そんな生活に、何の違和感も覚えない。
むしろ、頭のいいフリをして大講堂に歩く自分はもう想像することができなくなっていた。
私の中では大学というカテゴリーは既に、異文化になっていた。
入学式の後、指定された教室でクラス単位の集会があった。
「それでは一人ずつ自己紹介してください」
司会役の在学生に促されて、新入生が一人ずつ出身地や趣味などの自己紹介を始めた。
私は部屋に入る時に配られた名簿を見ながら順番を待った。私の番号の前の人の自己紹介が終わり、私の番が来た。
足早に黒板の前に立ち、同じクラスの人達の顔を見まわした。そこには受験マシーン化した彼らが腐った目を光らせていた。
「兵庫県から来ました南川正文です。まだこっちに来て日が浅いので、友達もいませ ん。どうぞ仲良くしてください」
まばらな拍手が終わり次の人へと続いた。
その後、クラス単位の飲み会が渋谷で行われた。東京にきて間もなかった私は、渋谷の人ごみを見るのは初めてだった。
特大モニターにはミュージックビデオが流れ、原色のネオンがきらめいていた。道行く人の表情は強張り、皆同じような歩調で夜の渋谷の町を切り裂いていた。
私は波打つ胸の内を悟られまいと無表情に歩きながら、目だけを機敏に動かした。
そして、生徒たちは関西にもあるチェーン店の居酒屋に入った。
店内は外以上に騒がしく、全ての人が同じ顔に見えた。
私はトイレに近い席に座り、メニューを眺めた。全く見覚えのあるメニューだった。
両隣の学生は対前の人と話を始めていた。私は、届けられたビールを乾杯することなくグラスを口に近づけた。横の学生の視線を感じたが、一気に飲み干した。
対面の男子学生がタバコを吸い始めたので、私は席を立った。
両隣の学生が怪訝な顔で僕を見たので、僕はトイレを指差した。それを見た彼らは微笑した。
私はトイレを済ました後、先ほどの席には戻らずに、他の空いているテーブルの席に腰を下した。
座ると同時に、ニキビ後のある男子学生が顔を近づけて口を開いた。
「おい、こんな中途半端な大学なんて世間の誰も相手にしてくれんぞ」
彼の言葉でそれまで騒いでいた学生達がコンセントを抜かれたロボットように沈黙した。店員の威勢のいい声が私達のテーブル一帯を駆け抜けた。
私はその日、飲めるだけ飲んで、吐けるだけ吐いた。クラスの誰一人の名前を聞くこともなく、私は家路に着いた。
三日月キャロット 5
「大学には、もう行かないの?」
私はさちが「いつまでここにいるの?」と言った様な気がして、すぐに言葉が出なかった。
私はタバコに火をつけて一呼吸置いて、最適な言葉を頭の中で模索した。
「大学に行っても何もないんだ」
「何もないの?」
「そう、驚く程に何もないんだ」
「私は高卒だから羨ましいけどね。憧れのキャンパスライフってやつですか」
化粧を落とした彼女の笑顔はとても清々しかった。少女のように艶やかな肌と、まるで己の全てを知ってしまっているような目は誰が見ても惹かれるに違いない。
「大学って何?」
彼女が眉間にしわを寄せて質問してきた。
「それは俺にもわからない、ただわかっていることと言えば・・」
私はタバコの煙を一つ吹かしてから言葉を続けた。
「大学ってのは、要するに、つまらない奴がつまらないことして、やっぱりつまらないことを確認するところなんだよ」
彼女は私の言葉に納得のいかないような顔をした。
「つまり、すんごくつまらないってことだよ・・」
「ふーん、まさくんはいつ、そのつまらなさに気が付いたの?」
「入学式の後にあった飲み会」
「早いね」
「ああ、早かったよ」
本棚には新書が二つ増えていた。一つはこの夏にベストセラーになったミステリー本で、もう一つは映画の批評本だった。
また、この部屋に彼女のモノが増えた。
私はさちが「いつまでここにいるの?」と言った様な気がして、すぐに言葉が出なかった。
私はタバコに火をつけて一呼吸置いて、最適な言葉を頭の中で模索した。
「大学に行っても何もないんだ」
「何もないの?」
「そう、驚く程に何もないんだ」
「私は高卒だから羨ましいけどね。憧れのキャンパスライフってやつですか」
化粧を落とした彼女の笑顔はとても清々しかった。少女のように艶やかな肌と、まるで己の全てを知ってしまっているような目は誰が見ても惹かれるに違いない。
「大学って何?」
彼女が眉間にしわを寄せて質問してきた。
「それは俺にもわからない、ただわかっていることと言えば・・」
私はタバコの煙を一つ吹かしてから言葉を続けた。
「大学ってのは、要するに、つまらない奴がつまらないことして、やっぱりつまらないことを確認するところなんだよ」
彼女は私の言葉に納得のいかないような顔をした。
「つまり、すんごくつまらないってことだよ・・」
「ふーん、まさくんはいつ、そのつまらなさに気が付いたの?」
「入学式の後にあった飲み会」
「早いね」
「ああ、早かったよ」
本棚には新書が二つ増えていた。一つはこの夏にベストセラーになったミステリー本で、もう一つは映画の批評本だった。
また、この部屋に彼女のモノが増えた。
三日月キャロット 4
「シャワー、先に浴びるね」
私が頷いてさちの方を振り向いた時には、彼女は、上着を脱いで下着だけの姿になっていた。
彼女の貧弱な乳房が不堕落な私を責めたてるように見えた。私は何も見なかったふりをして、リビングに繋がるドアノブに手をかけた。
「ちゃんとHしている?」
リビングのドアを開けると同時に彼女の声が聞こえた。私は後ろを振り向かずに「只今充電中です」と言って下を向きながらドアを開けた。
「乾電池じゃないんだから、期限が来ても知らないよ」
私の体は生涯で一度だけ欲情に供した時があった。その時以来、私は女と寝る機会をまったく持てないでいた。
なぜなら、その時のセックスが私の中で規範的なものとなってしまって、他の女と寝る事が許されないような気がしてならなかったからだった。
さちはシャワーから上がると、決まってよく冷えたコーラを飲む。もともと彼女はアルコールが強い方ではなく、仕事の上で仕方なく飲んでいたので、甘い炭酸飲料で体中に溜まった一日の疲れを濾過していた。
「かんぱーい」
ワイングラスに注がれたコーラがしぶきを上げた。彼女はコーラを本当においしそうに飲む。喉で踊りだす炭酸をなすがままに受け止めていた。彼女の喉の皮膚越しに泡が弾ける音が聞えていた。彼女の全く自然な飲み方はコーラのCMに起用されてもおかしくないくらい綺麗な飲み方だった。
スピーカーからは彼女の好きなパチェコアレキサンダーが流れていた。この部屋にあるものすべてが彼女の好みにより厳選されたものばかりであった。
今にも天井に届きそうなぐらいに成長した観葉植物、壁にゲルニカの複製画、本棚には花の図鑑と邦画のビデオが並んでいた。
その中の一つとして私がいた。
私は植物や絵と同じように彼女の嗜好品の一部なのだろうか、それとも町で拾った捨て犬のような刹那的な存在なのだろうか、そのうち町に捨てられ、冷たい星空の下で、風に吹かれ砂塵のように虚しく消えてしまうのだろうか。
私はそんなことを考えながら、本棚に綺麗に整頓された本の題名を端から目で追っていた。
私が頷いてさちの方を振り向いた時には、彼女は、上着を脱いで下着だけの姿になっていた。
彼女の貧弱な乳房が不堕落な私を責めたてるように見えた。私は何も見なかったふりをして、リビングに繋がるドアノブに手をかけた。
「ちゃんとHしている?」
リビングのドアを開けると同時に彼女の声が聞こえた。私は後ろを振り向かずに「只今充電中です」と言って下を向きながらドアを開けた。
「乾電池じゃないんだから、期限が来ても知らないよ」
私の体は生涯で一度だけ欲情に供した時があった。その時以来、私は女と寝る機会をまったく持てないでいた。
なぜなら、その時のセックスが私の中で規範的なものとなってしまって、他の女と寝る事が許されないような気がしてならなかったからだった。
さちはシャワーから上がると、決まってよく冷えたコーラを飲む。もともと彼女はアルコールが強い方ではなく、仕事の上で仕方なく飲んでいたので、甘い炭酸飲料で体中に溜まった一日の疲れを濾過していた。
「かんぱーい」
ワイングラスに注がれたコーラがしぶきを上げた。彼女はコーラを本当においしそうに飲む。喉で踊りだす炭酸をなすがままに受け止めていた。彼女の喉の皮膚越しに泡が弾ける音が聞えていた。彼女の全く自然な飲み方はコーラのCMに起用されてもおかしくないくらい綺麗な飲み方だった。
スピーカーからは彼女の好きなパチェコアレキサンダーが流れていた。この部屋にあるものすべてが彼女の好みにより厳選されたものばかりであった。
今にも天井に届きそうなぐらいに成長した観葉植物、壁にゲルニカの複製画、本棚には花の図鑑と邦画のビデオが並んでいた。
その中の一つとして私がいた。
私は植物や絵と同じように彼女の嗜好品の一部なのだろうか、それとも町で拾った捨て犬のような刹那的な存在なのだろうか、そのうち町に捨てられ、冷たい星空の下で、風に吹かれ砂塵のように虚しく消えてしまうのだろうか。
私はそんなことを考えながら、本棚に綺麗に整頓された本の題名を端から目で追っていた。
三日月キャロット 3
「人を殺した事ある?」
彼女はまるで、私を試すような質問をしてきた。私は動揺したことを、悟られないように自然に答えた。
「間接的ならね」
「それは、罪にならないでしょ?」
「道具理論が証明されれば、間接正犯かな」
そう言って、私は夜空を見上げ、私が初めてセックスをした三木さんの白い裸体を思い出していた。さちが横にいるのに、私は長い間、想像にふけっていた。
気がつくと、さちが私の方を見ていた。私は気付いていないふりをして、夜空を見た。綺麗な三木さんの裸体が空の星達に食われてしまう様な錯覚に陥った。
「今日は疲れた」
さちは私に質問したのか、それとも自分自身の体調をただ言ったのか、その真意はわからなかった。ただいつもより、彼女の寄り添う体が重く感じられたのは確かだ。
彼女の香水の匂いが私の鼻を突いた。いい匂いだった。先程すれ違った女の香りよりも私好みだ。もっとも、さちが私の好みに合わせているわけでも、知っているわけでもなかったが、私は彼女の甘い香りを独り占め出来ることが嬉しかった。
さちと同様に、私も疲れているのかもしれない、いつの日からか、私の肩の中に小さな鉄の球体が埋め込まれているような重さがあった。それはどんどん大きくなり、終には私の体全体が鉄になり、錆びて崩れていくような感覚を与えていた。
先程まで静寂だった星達が、一斉に瞬き始めたように見えた。
星達に迷いはない
これはたぶん、星達が生きていない証拠だろう・・
さちは仕事場である新宿から決してタクシーで家の前まで帰ってくることはなかった。本人は健康のためと言っているが、私はこうして彼女の話を聞きながら暗い夜道を歩く時間が好きだった。
たまに昼間の町を彼女と歩いたりすると、周りの視線を強く感じる時が多い。彼らは簡単な間違い探しクイズをするように私と彼女を見比べるのだ。ジーパンにパーカー姿の男の腕に、ブランド物に包まれた女がしがみ付いているのは明らかに不釣合いなのだろう。
彼女のスラリとした鼻、下唇が少し厚みのある柔らかそうな唇、綺麗な二重の目、外形的に体中のどこを見ても完璧であった。
彼女は家に帰ると、ノートに客から貰った物を、客の名前、日付と共に書き込むのが日課だった。主婦が家計簿をつけることと同じような感覚なのだろう。
さちがテーブルでノートに書き込んでいる姿を見る度に、私は彼女が彼女自身の身に内包する運命的な寂しさを隠す様に生きているように見えてきて悲しかった。
彼女はまるで、私を試すような質問をしてきた。私は動揺したことを、悟られないように自然に答えた。
「間接的ならね」
「それは、罪にならないでしょ?」
「道具理論が証明されれば、間接正犯かな」
そう言って、私は夜空を見上げ、私が初めてセックスをした三木さんの白い裸体を思い出していた。さちが横にいるのに、私は長い間、想像にふけっていた。
気がつくと、さちが私の方を見ていた。私は気付いていないふりをして、夜空を見た。綺麗な三木さんの裸体が空の星達に食われてしまう様な錯覚に陥った。
「今日は疲れた」
さちは私に質問したのか、それとも自分自身の体調をただ言ったのか、その真意はわからなかった。ただいつもより、彼女の寄り添う体が重く感じられたのは確かだ。
彼女の香水の匂いが私の鼻を突いた。いい匂いだった。先程すれ違った女の香りよりも私好みだ。もっとも、さちが私の好みに合わせているわけでも、知っているわけでもなかったが、私は彼女の甘い香りを独り占め出来ることが嬉しかった。
さちと同様に、私も疲れているのかもしれない、いつの日からか、私の肩の中に小さな鉄の球体が埋め込まれているような重さがあった。それはどんどん大きくなり、終には私の体全体が鉄になり、錆びて崩れていくような感覚を与えていた。
先程まで静寂だった星達が、一斉に瞬き始めたように見えた。
星達に迷いはない
これはたぶん、星達が生きていない証拠だろう・・
さちは仕事場である新宿から決してタクシーで家の前まで帰ってくることはなかった。本人は健康のためと言っているが、私はこうして彼女の話を聞きながら暗い夜道を歩く時間が好きだった。
たまに昼間の町を彼女と歩いたりすると、周りの視線を強く感じる時が多い。彼らは簡単な間違い探しクイズをするように私と彼女を見比べるのだ。ジーパンにパーカー姿の男の腕に、ブランド物に包まれた女がしがみ付いているのは明らかに不釣合いなのだろう。
彼女のスラリとした鼻、下唇が少し厚みのある柔らかそうな唇、綺麗な二重の目、外形的に体中のどこを見ても完璧であった。
彼女は家に帰ると、ノートに客から貰った物を、客の名前、日付と共に書き込むのが日課だった。主婦が家計簿をつけることと同じような感覚なのだろう。
さちがテーブルでノートに書き込んでいる姿を見る度に、私は彼女が彼女自身の身に内包する運命的な寂しさを隠す様に生きているように見えてきて悲しかった。
温かい心
まず 自分の手を見なさい
そして これまでのことを感謝しなさい
今 あなたがいるのは みんながいるからです
今 あなたが幸せなのは みんなが辛いからです
今 あなたが辛いのは みんなが幸せだからです
もし 涙をながすなら ゆっくり泣きなさい
そして 感謝しなさい
ここまでよくがんばりました
自分をほめなさい
そして
どんなにつらくても
どんなにかなしくても
どんなに怖くても
そんなときこそ
あなたでいなさい
そして これまでのことを感謝しなさい
今 あなたがいるのは みんながいるからです
今 あなたが幸せなのは みんなが辛いからです
今 あなたが辛いのは みんなが幸せだからです
もし 涙をながすなら ゆっくり泣きなさい
そして 感謝しなさい
ここまでよくがんばりました
自分をほめなさい
そして
どんなにつらくても
どんなにかなしくても
どんなに怖くても
そんなときこそ
あなたでいなさい
温い心
まず 自分の手を見なさい
そして これまでのことを感謝しなさい
今 あなたがいるのは みんながいるからです
今 あなたが幸 せなのは みんなが辛いからです
今 あなたが辛いのは みんなが幸せだからです
もし 涙をながすなら ゆっくり泣きなさい
そして 感謝しなさい
ここまでよくがんばりました
自分をほめなさい
そして
どんなにつらくても
どんなにかなしくても
どんなに怖くても
そんなときこそ あなたでいなさい
そして これまでのことを感謝しなさい
今 あなたがいるのは みんながいるからです
今 あなたが幸 せなのは みんなが辛いからです
今 あなたが辛いのは みんなが幸せだからです
もし 涙をながすなら ゆっくり泣きなさい
そして 感謝しなさい
ここまでよくがんばりました
自分をほめなさい
そして
どんなにつらくても
どんなにかなしくても
どんなに怖くても
そんなときこそ あなたでいなさい
三日月キャロット 2
私がタバコに火を付けてから数分後に、タクシーがタワーから十メートル離れた路肩に止まった。タクシーから、まだ11月だというのに毛皮のコートを着た女性が出てきた。
その女性は、小動物のように辺りを見回していた。料金を受け取ったはずの運転手が不機嫌な顔を露骨に表している様子から、どうやらタクシーの中には、彼女一人の手にはもてないほどの荷物があるようだった。彼女の目が私の方に向くと、彼女は元気よく手を振った。
「まーくん、こっちこっち。荷物持ってくれなーい?」
さちの笑顔が、月のスポットライトを独り占めしていた。私はタバコを路上に捨て、ひときわ目立つ格好のしたさちのもとに小走りで駆けていった。先ほど見かけた若者達が物珍しそうに彼女を見ていた。私がタクシーの側に着くと彼女は笑顔で私に喋りかけた。
「今日はいっぱいプレゼント貰っちゃった。世の中どこが不景気なんだろね」
タクシーの後部座席には花束と赤いリボンのついた箱が三つ置いてあった。
「ヤクザには不景気なんて関係ないよ」
私は後部座席の花束と豪華に装飾された箱を取り出しながら言った。タクシーの運転手が私のほうを、一瞥した。
「最近はIT系の社長さんなんかも、景気いいのよ」
「花束は自分で持ってよ」
彼女は私の目を見つめながら差し出した花束を手にとった。
「ありがとう」
彼女はまるで、私がプレゼントした様に嬉しそうな顔をして花束を抱え込んだ。
「俺があげたわけじゃないだろ」
私は彼女の真剣な顔に思わず冷たい態度を取った。彼女は舌を出して、自分の頭を小突いた。その様子がサルの様だったので私は少し笑みをこぼした。その様子を見て彼女も声をあげて笑い、私の腕を組んだ。私にとって、一番幸せな瞬間だ。
私達はキャロットタワーを背にしてマンションに向かった。下北沢と三軒茶屋を結ぶ茶沢通りは昼間の賑やかさが嘘のようにひっそりとしていた。時折、飲み屋から聞こえる笑い声が人間の存住をかろうじて、証明していた。
私の腕をしっかりと掴んでいる彼女は楽しそうに今日の客の話をしていた。私は彼女の話に半分耳を傾け、夜空の星を見ていた。一通り喋り終えた彼女も星を見ていた。彼女は暫く星を見てから、星に向かって銃を突きつける真似をした。
「もしオリオン座を打ち落としたら、どうなるかな」
狙いを付けたまま彼女は言った。
「理科の教科書が変わる」
「それだけ?」
「あとは何も変わらない、人は何も変わらず生きていくさ」
「地球で最後まで生きようと努力するのは人間だろうね」
さちはまるで空に書かれている文章を朗読するように言った。
「地球の重力が今の二倍になったら、時間の経過も二倍になるのかな?」
さちが夜空に手を広げながら言った。私は少し考えてから、言葉を発した。
「よくわからないけど、やっぱり宇宙全体で一つの時を共有しているのじゃないかな、太陽付近だけ地球よりも時間の経過速度が五倍になるってのは変じゃない?」
彼女が聞きたかったことはそんなことじゃなかったのだろうか、彼女は難しい顔をして夜空を見ていた。私は更に、自然と脳裏に浮かんだ言葉を続けた。
「たとえ、地球の重力が二倍になっても、人間は今の二倍の努力をして、今と何も変わらない生活をするさ」
「そんなの、つまんない」
そういって、彼女は私の腕を強く握り締めた。彼女の毛皮のコートが私の体半分だけを温めた。さちは何でつまらないと言ったのだろうか。人間なんてものはひ弱い生き物だとでも言えばよかったのだろうか。私はなぜか自分自身を否定されたような気がした。さちもそれを認識していたのかもしれない。そうだとしたら、それはとても残酷なことだ。
その女性は、小動物のように辺りを見回していた。料金を受け取ったはずの運転手が不機嫌な顔を露骨に表している様子から、どうやらタクシーの中には、彼女一人の手にはもてないほどの荷物があるようだった。彼女の目が私の方に向くと、彼女は元気よく手を振った。
「まーくん、こっちこっち。荷物持ってくれなーい?」
さちの笑顔が、月のスポットライトを独り占めしていた。私はタバコを路上に捨て、ひときわ目立つ格好のしたさちのもとに小走りで駆けていった。先ほど見かけた若者達が物珍しそうに彼女を見ていた。私がタクシーの側に着くと彼女は笑顔で私に喋りかけた。
「今日はいっぱいプレゼント貰っちゃった。世の中どこが不景気なんだろね」
タクシーの後部座席には花束と赤いリボンのついた箱が三つ置いてあった。
「ヤクザには不景気なんて関係ないよ」
私は後部座席の花束と豪華に装飾された箱を取り出しながら言った。タクシーの運転手が私のほうを、一瞥した。
「最近はIT系の社長さんなんかも、景気いいのよ」
「花束は自分で持ってよ」
彼女は私の目を見つめながら差し出した花束を手にとった。
「ありがとう」
彼女はまるで、私がプレゼントした様に嬉しそうな顔をして花束を抱え込んだ。
「俺があげたわけじゃないだろ」
私は彼女の真剣な顔に思わず冷たい態度を取った。彼女は舌を出して、自分の頭を小突いた。その様子がサルの様だったので私は少し笑みをこぼした。その様子を見て彼女も声をあげて笑い、私の腕を組んだ。私にとって、一番幸せな瞬間だ。
私達はキャロットタワーを背にしてマンションに向かった。下北沢と三軒茶屋を結ぶ茶沢通りは昼間の賑やかさが嘘のようにひっそりとしていた。時折、飲み屋から聞こえる笑い声が人間の存住をかろうじて、証明していた。
私の腕をしっかりと掴んでいる彼女は楽しそうに今日の客の話をしていた。私は彼女の話に半分耳を傾け、夜空の星を見ていた。一通り喋り終えた彼女も星を見ていた。彼女は暫く星を見てから、星に向かって銃を突きつける真似をした。
「もしオリオン座を打ち落としたら、どうなるかな」
狙いを付けたまま彼女は言った。
「理科の教科書が変わる」
「それだけ?」
「あとは何も変わらない、人は何も変わらず生きていくさ」
「地球で最後まで生きようと努力するのは人間だろうね」
さちはまるで空に書かれている文章を朗読するように言った。
「地球の重力が今の二倍になったら、時間の経過も二倍になるのかな?」
さちが夜空に手を広げながら言った。私は少し考えてから、言葉を発した。
「よくわからないけど、やっぱり宇宙全体で一つの時を共有しているのじゃないかな、太陽付近だけ地球よりも時間の経過速度が五倍になるってのは変じゃない?」
彼女が聞きたかったことはそんなことじゃなかったのだろうか、彼女は難しい顔をして夜空を見ていた。私は更に、自然と脳裏に浮かんだ言葉を続けた。
「たとえ、地球の重力が二倍になっても、人間は今の二倍の努力をして、今と何も変わらない生活をするさ」
「そんなの、つまんない」
そういって、彼女は私の腕を強く握り締めた。彼女の毛皮のコートが私の体半分だけを温めた。さちは何でつまらないと言ったのだろうか。人間なんてものはひ弱い生き物だとでも言えばよかったのだろうか。私はなぜか自分自身を否定されたような気がした。さちもそれを認識していたのかもしれない。そうだとしたら、それはとても残酷なことだ。
三日月キャロット 1
三日月キャロット
一度も努力したことのなかった私は社会のゴミだろうか。明日の希望がない私は無価値な人間なのだろうか。
私は人の顔を見ては、「頑張れ」って言う奴が、無責任な奴に見えて嫌いだ。他人には頑張れって言っといて、実は自分の励みにしている奴には吐き気がする。
だから私は決して他人から褒められるようなことはしてこなかったし、私からは誰も褒めない。そうやって、自分を地に伏せてきた。
読みかけの本を机の上に置き、タバコをポケットに入れてから外に出た。まだ十一月に入ったばかりだというのに、殺気立った冷気が私の体を包み込み、血液を一瞬のうちに凝固させるかのようだった。
空には幼児が出鱈目に貼り付けたような星々が、その存在を誇示するように輝いていた。
季節外れの寒さが目の角膜を波打たせ、部屋に戻ろうと一瞬、躊躇ったが、さちは、一分でも待たされると子供みたいに機嫌が悪くなるので、ポケットに手を入れ、足早に三軒茶屋駅に向かった。
蜜柑色の街灯が連なり、狭い道が迷路のように入り組んでいる太子堂五丁目一帯を抜け、烏山川緑道に出ると、駅前の賑やかな光と無形の感触が体に感じられた。
昼休みは児童の雑音で満たされる太子堂小学校の校庭が、山辺のダムのように寂しさを辺りに広げていた。校庭の脇のジャングルジムが夜空に逃げ出す瞬間をじっと待っているように見えた。
前方から金髪の女がミニチュアダックスを連れて歩いて来た。すれ違う時に、レモンの香りがした。とても人工的だが、鼻につくほどではなった。
歩道脇の花壇に植えられたマリーゴールドが街灯の光を気持ちよさそうに浴びていた。それは昼も夜もけたたましく生命力を闊歩させる花だけが為せる業であった。
駅に近づくに連れて、レンガ色の大きな建物がゆっくりと、私の方に近いてきた。 三軒茶屋駅に隣接するキャロットタワーが、その大きさを余すところ無く、私の視界を覆った。
なにか威圧的な雰囲気を醸しだしているキャロットタワーは住み始めた当初から私にとって特別な存在になっていた。
スポットライトに照らされたキャロットタワーは、まるで生物的な呼吸をしているかのようであり、その一方で女性的な魅惑もあった。
それは夜空を貫き、空の星々を吸い込むような威勢もあった。そして、キャロットタワーの真下で、私は足を止めた。
遠くからは異様な雰囲気を出しているキャロットタワーは近くで見ると不思議なやさしさと善人が持つ温かさがあり、それにすがるように数人の浮浪者がキャロットタワーに見をよせるように横たわっていた。
キャロットタワーを突き抜ける通路を通り抜けて、タクシーで賑わう世田谷通りに出た。タワーの二階には朝方のまで営業しているレンタルビデオ店があるので、この時間帯でもキャロットタワーは多くの人が出入りをしていた。
タワーを通り抜けた一帯には、町の喧騒と不堕落さが調和的に存在していた。大声をあげて話しをしている少年、まぶしいネオンが輝くゲームセンター、二十四時間営業の漫画喫茶、そこには凡そ自然の力では修正不可能な閉塞感が漂っていた。
時計を見るとちょうど二時十五分だった。無意識に、さちの屈託のない笑顔を思い浮かべていた。
私は、実に身勝手な男なのだ。
一度も努力したことのなかった私は社会のゴミだろうか。明日の希望がない私は無価値な人間なのだろうか。
私は人の顔を見ては、「頑張れ」って言う奴が、無責任な奴に見えて嫌いだ。他人には頑張れって言っといて、実は自分の励みにしている奴には吐き気がする。
だから私は決して他人から褒められるようなことはしてこなかったし、私からは誰も褒めない。そうやって、自分を地に伏せてきた。
読みかけの本を机の上に置き、タバコをポケットに入れてから外に出た。まだ十一月に入ったばかりだというのに、殺気立った冷気が私の体を包み込み、血液を一瞬のうちに凝固させるかのようだった。
空には幼児が出鱈目に貼り付けたような星々が、その存在を誇示するように輝いていた。
季節外れの寒さが目の角膜を波打たせ、部屋に戻ろうと一瞬、躊躇ったが、さちは、一分でも待たされると子供みたいに機嫌が悪くなるので、ポケットに手を入れ、足早に三軒茶屋駅に向かった。
蜜柑色の街灯が連なり、狭い道が迷路のように入り組んでいる太子堂五丁目一帯を抜け、烏山川緑道に出ると、駅前の賑やかな光と無形の感触が体に感じられた。
昼休みは児童の雑音で満たされる太子堂小学校の校庭が、山辺のダムのように寂しさを辺りに広げていた。校庭の脇のジャングルジムが夜空に逃げ出す瞬間をじっと待っているように見えた。
前方から金髪の女がミニチュアダックスを連れて歩いて来た。すれ違う時に、レモンの香りがした。とても人工的だが、鼻につくほどではなった。
歩道脇の花壇に植えられたマリーゴールドが街灯の光を気持ちよさそうに浴びていた。それは昼も夜もけたたましく生命力を闊歩させる花だけが為せる業であった。
駅に近づくに連れて、レンガ色の大きな建物がゆっくりと、私の方に近いてきた。 三軒茶屋駅に隣接するキャロットタワーが、その大きさを余すところ無く、私の視界を覆った。
なにか威圧的な雰囲気を醸しだしているキャロットタワーは住み始めた当初から私にとって特別な存在になっていた。
スポットライトに照らされたキャロットタワーは、まるで生物的な呼吸をしているかのようであり、その一方で女性的な魅惑もあった。
それは夜空を貫き、空の星々を吸い込むような威勢もあった。そして、キャロットタワーの真下で、私は足を止めた。
遠くからは異様な雰囲気を出しているキャロットタワーは近くで見ると不思議なやさしさと善人が持つ温かさがあり、それにすがるように数人の浮浪者がキャロットタワーに見をよせるように横たわっていた。
キャロットタワーを突き抜ける通路を通り抜けて、タクシーで賑わう世田谷通りに出た。タワーの二階には朝方のまで営業しているレンタルビデオ店があるので、この時間帯でもキャロットタワーは多くの人が出入りをしていた。
タワーを通り抜けた一帯には、町の喧騒と不堕落さが調和的に存在していた。大声をあげて話しをしている少年、まぶしいネオンが輝くゲームセンター、二十四時間営業の漫画喫茶、そこには凡そ自然の力では修正不可能な閉塞感が漂っていた。
時計を見るとちょうど二時十五分だった。無意識に、さちの屈託のない笑顔を思い浮かべていた。
私は、実に身勝手な男なのだ。