ピュア-LOVE小説
Amebaでブログを始めよう!

三日月キャロット 18


 さちが寝込んでから3日間、私は付っきりで彼女を看病した。


 3日目の朝、彼女の体温は正常に戻り、朝から私の作った御粥をおいしそうに食べた。猫舌の彼女は熱い御粥を口の中で執拗に転ばし、空気を吸い込んでは、息を噴出していた。

 

 私は、さちが子供のように御粥を食べる様子を見て、心の底からホッとした。



 結局、私は実家には帰らなかった。私はこの三日間、窓の外を見て、兄の冥福を祈っていた。兄も私の気持ちをわかってくれるだろう。


 窓ガラスに吸い付いている水滴が大きな塊を作っては、下に流れていった。外は細かい雪が降っていた。まるで兄の心の底から降って来たかのような優しい雪だった。


 雪花が風に揺られ、アスファルトに着くと同時に、溶けてなくなってしまう、積もることもなく、ただ地面を少し濡らす程度の雪だった。



 私とさちは夕方まで、テレビを見ていた。一年間のニュースの総集編が各局で流されていた。未成年の殺人、政治家の汚職、企業の倒産、それは人間が持つ全てのため息を搾りきらせるかのような事件ばかりだった。


 雪は夕方近くに止んだ。


 さちがテレビを消してから、大きな欠伸をしてから言った。


 「久しぶりに散歩しようよ」


 私は、軽く頷いた。



 やはり、私は彼女を愛していた。

三日月キャロット 17

 朝方の6時頃に携帯電話が鳴った。さちの横でうとうとしていた私は反射的に携帯を掴んでいた。さちを起こさないようにリビングに行き、携帯の画面に目を落とした。


 液晶画面には〝実家〟と映し出されていた。


私は少し間をおいてから電話に出た。電話線の向こうからは震えた声が聞こえてきた。私は瞬時に、その声が母親の声であることがわかった。


「お兄ちゃんが交通事故で亡くなったの、正文ちゃん早く帰ってきて」


 その後、母親は2つ3つ何か言っていたようだが、気がつくと電話は切れていた。私の左手が勝手にボタンを押していたのだ。


 私は寝室に戻り、ベットで寝ている彼女と、大好きだった兄の顔を想像し交互に見比べた。そして、私は比べたことを後悔した。

 

 高校2年生のとき、夕食の席で父親に「クズ」と言われたことがあった。


 模擬テストの結果が出たときだった。医学部の合格判定が最低ランクのEだったのが気に食わなかったらしい。いつも病院ばかり気に掛けて、家族とは話もしない父親だった。兄は少し父親に意見をしてくれたが、母親は黙々と漬物を食べていた。


 私はその時、学校帰りに観た映画を思い出していた。静岡に住む老夫婦がサボテンを育てる話だった。海に近い家で朝は心地よい風が吹き、お爺さんは毎朝サボテンに花が咲かないか確認するのが日課だった。ある日、そのサボテンは水のやりすぎで腐ってしまう。その後の展開は私には理解できなかった。実に時間軸の長い映画だった。


 親は文句をいいながら、寝室に消えた。兄は私に優しい笑顔で、「気にするな」と言ってくれた。母親は相変わらず、黙々と漬物を食べていた。


 その夜に大きな鼾をかいて、父は死んだ。

三日月キャロット 16

 体温が三十九度もあった。私は彼女をベットに寝かせてから、彼女の働く店に電話をした。


「はいっ、エンジェルフリーです」

 頭の悪そうな声だった。電話の向こうから、ピアノの音が聞えていた。

「小泉幸子と同居しているものですが、店長さんでいらっしゃいますか?」

「ああっ、はいはい私が店長ですよ」

 電話の向こうは酔っていた。

「彼女が、ひどく熱を出していまして、明日は店を休ませます」

「ええ、困るんだよねー」

 受話器の向こうから、ガラスが割れる音がし、それと共に数人の笑い声が聞えた。

「明日ね、テレビ局の部長さんが来るんだよ、彼は小泉さんがお気に入りでねえ、何とかならないかな」

「熱が39度もありますので、すみません」

暫く沈黙が続いた。男の息遣いが電話線を伝って感じられた。

「ふんっ、売女のくせに」

 そう言って、電話が切れた。


 私は氷枕を用意してから、寝室に戻り彼女の熱い頭の下に置いた。ベットの上で苦しそうに目を瞑っている彼女を見た。

 時折、さちは店の客を家に連れて帰ってくる時があった。そういう時は、彼女の方から二,三日家を出て欲しいと頼まれ、三万円を渡されるのだ。

・・ふんっ、売女のくせに・・

 店長の鼻から吹き出たような言葉が幾重にも重なって耳底で響いていた。

三日月キャロット 15

「まさくん」

さちの砂埃のような声が、かろうじて私の耳に届いた。

「どうした?」

「私ね、結婚を約束している人がいたの」

「さちにそんな人がいたのか」

私の声は驚きでおかしいくらい高い声になってしまった。力の抜けたさちは、そんな私の動揺に関係なく話を続けた。

「彼ね、私を置いてニューヨークに絵を描きに行ったのよ」

「ニューヨークか、それは遠いな」

彼女の荒い息遣いが私の背中を打った。

「ごめんね」

 さちは背中に顔を埋めて泣いているようだった。小刻みに震える彼女の体が私の体の芯に伝わってきた。

私は彼女がどうして私に、謝ったのか理解できなかった。

「私、まさくんのこと好きよ」

 
 さちは出合った当初から、降り続く苦しさのなかでも、なけなしの幸福を感じ取ろうとしている様子だった。彼女は、幸福を感じようとしている時点で、不幸なことをさちは気付いたのかもしれない。

私は黙って、私の肩から細木のように垂れ下がっている彼女の腕を見ていた。

ポツリとタバコを押しつけたような火傷が見えた。

そして私は、なぜか三木さんの首をしめている坂之上さんの姿を思い浮かべていた。

三日月キャロット 14

十二月の末、私はいつものようにさちを迎えに、夜の茶沢通りを歩いていた。

およそ人の気配がしない茶沢通りが、コンビニの照明を浴びて輝いていた。

コンビニの光は茶沢通りだけでなく、無情な媒体として人々の心さえも輝かしているのかもしれない。

キャロットタワー前には、いつものように数人の少年達が大声で話をしていた。私はタバコに火をつけて、さちを待っていた。

キャロットタワーに反射され、彼らの会話が耳に入って来た。

「マジかよ・・マジだよ・・ウソだろ・・ウソじゃねえよ」

日本語を習い始めた外国人のような会話が三軒茶屋の夜に虚しく響いていた。

若者の会話がこんなにも白痴的な会話になる事を昔の文豪達は想像したのだろうか、文豪達の憤慨が『情報』という新次元にむなしく掻き消されているのようで悲しい。

 
 数分後にいつもの場所にタクシーが止まり、コートに包まれた人形のようなさちが中から出てきた。今日は彼女の手にはいつもの客からのプレゼントはないようだった。

 さちは私の方に近づくなり私の腕をつかみ、遊びすぎた幼稚園児のように家に向かって歩きだした。

彼女の香水の香りが、私の鼻をやさしく突付いた。

今日も何人もの男がさちの匂いを嗅いで精力的な想像をして勃起したのであろうか。

私達は会話も無く、愛も無く、友情もないまま、ただ空間的に繋がっている関係にすぎない。

今日のように何も語らない彼女を見ていると、さちはいつか私の腕に絡めている髪を解き、腕を離し、私を置いてどこか遠くに飛んで行くような気がした。

あまりにもさちが生きている気がしなかったので、彼女の方を見た。

暗いアスファルトを見ながら、マウスのような規則的な呼吸をしている彼女の表情は何日も感情を表していないマリオネットのように擬人的だった。

いつもなら私の腕をぐいぐいと引っ張って話をするのだが、さちの重い足が彼女の中核的な要素を吸い取っているような気がした。

その要素が土に解け、あの大きなキャロットタワーをさらに成長させているような気さえした。

彼女の額に手を当ててみると、寒さで冷えきった私の手が彼女のすべての体温を授けたように温まった。

私は足を止めてから、黙って腰を屈めた。

彼女も黙って私の背中に乗り、すべての体重を私に預けた。

さちの体は思っていた以上に軽かった。

私の背中に彼女の小さな乳房が乗りかかり、洗濯板のような肋骨が私の腰に上下のゴリゴリした感触を与えた。

私は何か自分に対する恥ずかしさと苛立ちで胸が詰まると同時に、こうして彼女を背負うことで、彼女の要素が解けないことを願って歩いた。


茶沢通りの輝きが私を苦しめた。

三日月キャロット 13

さちは、時折家に帰ってこない。

「今日は帰れない」との電話がある時、必ず背後に男の気配を感じることができた。

 そんな日、私は一睡もできないことが多い。そういう時は、始発の電車に乗って朝一番の映画を見に行くことにしていた。

 これといって好きな監督や俳優などはいなかったが、どんなに私を取り巻く環境が変わっても、映画を見る習慣は以前と変わらなかった。

 世の中の変化に排他的な人が、無意識のうちに爪を噛んでしまうように、私も無意識に映画館に入ってしまうのかもしれない。

 ただ昔のように映画を見た後に、爽快感や感動を得たりすることはあまりない。スクリーンの俳優達が、私のなけなしの精力を吸収し、演技の糧としている様に思えてしまう時さえあった。

 それでも私は中学、高校の休日のほとんどは映画館に足を運んだ過去が惰性的に私の足を映画館に向けるのだ。

 大学生になってから字幕を見ることに違和感を覚えた私は、邦画ばかり見るようになった。

 ハリウッドの映画と比べ圧倒的な低予算で作られた邦画は私の心の奥底にへばり付いている無常感のようなものと心地よく共鳴するからだ。


 今日も渋谷駅から喧騒なセンター街とは正反対の方向に進み、国道沿いにある映画館に入った。

 その映画館は、無機質な外観で清潔感があり、作品が観客に修飾されることを防いでいた。

 ちょうど放映されていたのは、欧州の各映画祭で拍手喝采を浴びた若手日本人監督の作品ということで、多少の期待を持って館内に入った。

 館内には数人程の客がまばらに座っている程度で、集中して見られる環境であった。私は低位置の右端の席に座り、スクリーンの世界に集中した。
 
 期待とは裏腹に、二十代の監督が描いた作品は終始四十台のベテラン役者の独断場と化し、人間がおよそ感じるであろう当たり前の感覚がそこにあるだけだった。

 別れた息子との再開、再婚した妻の死、会社の倒産、今の日本社会を凝縮した様な映画は観客がわずか七人というこの映画館には重かった。二十代の監督が己の知らない四十台を描くことに私は疑問の念を抱いた。

「俺はようやく自分の間違いに気付いた。幸せというのは、どれだけ自分の愛する人の笑顔を見られたかだ」

 仕事も家族も失った男性が四十年の月日をかけて得た人生観は、百円バーガーをパクつきながら語りあう若者となんら変わらなかった。

 ここにもつまらなさが蔓延していた。
 
 はやく、さちの笑顔を見たい。私はそう思いながら、映画館を後にした。
 

三日月キャロット 12

 その日から何度か、さちと会った。

 場所は新宿だった。キャバクラに出勤する前の彼女の格好はあまりにも目立った。ミニスカートからは、綺麗な足が出ていた。胸元からは、甘い香りがした。

 私のジーパンにジャケットとカジュアルな格好とはあまりにも不釣合いだった。

 道行く男性達は決まって、さちの足を見た後、怪訝そうに僕の顔を見た。


 私達は、手をつなぐことはあったが、セックスはしなかった。

 私は、できればさちとセックスしたかったが、たとえ彼女とベットに入ることになっても、彼女の理性的で筋の通った鼻を見ると、私の心が萎えるような気がした。

 理由はよくわからないが、彼女の理性的な鼻は、貞操帯のように私の精力を薄めた。それ程、彼女の鼻は綺麗なのだ。


 10月の初め、ドアに張り紙があった。大家の名前入りで、今月家賃を払わなかったら、家を出てもらうということだった。

 私は、さちと新宿で会うようになってから、居酒屋のバイトを辞めていた。
 
 さちからの連絡は時間も曜日も不定期だった。私は、さちから連絡があるとすぐに会えるようにバイトを辞めてしまったのだ。

 それほど、私にとって彼女と会うことは重要なことになっていた。

 なぜだろうか、さちが私の何を知っているのだろうか。私がさちの何を知っているのだろうか。



 「じゃあ、さちの家に来たら」

 さちに今月、家賃を払えなかったら家を追い出されることを話したら、彼女は簡単に言った。

 私は反射的に、断った。しかし、答えはもう出ていた。さちはそれを悟っているかのように、首を横に振る私に綺麗な笑顔を見せた。

 結局、10月の家賃が払えず、私は彼女の家に行くことにした。

 彼女の家は、予想通りの家だった。三軒茶屋にある彼女のマンションは、私のアパートの10倍の大きさはあった。
 
 部屋は彼女の匂いで一杯だった。玄関にはマリーゴールドが瓶に刺さっていた。

 玄関から一番近い部屋が私の部屋となった。
 
 部屋には布団が置かれていた。

「その布団、去年まで、さちが使っていたの。お古だけどいいでしょ」

「横になれるなら何でもいいよ」

 そう言って、私は布団に寝転んだ。布団からは、さちの甘い香りがした。

 さちの家で初めての夜は、一睡も出来なかった。私は朝までに布団の中で、自慰を三回した。

 私は、小学校で飼育されているウサギのような気持ちだった。


 それから毎月彼女から小遣いを貰い、彼女が店に出勤するのを三軒茶屋駅まで見送った。その後は大抵、パチンコやマンガ喫茶で時間を潰す生活が続いた。

 それは、時間が過ぎるというよりも水中を浮遊しているミジンコのように、ただ空間を泳いでいるだけのような生活であった。

 あたりまえのように時が過ぎ、また一年が終わろうとしていた。

三日月キャロット 11

 いつものようにバイトの帰りに、居酒屋で一人飲んでいた。

 店の奥から、怒鳴り声が聞えてきた。いい気分の私は、後ろを振り返った。

 近くのテーブルで一人の女の子が中年の男性に大声で怒鳴られていた。

 男は日頃の不快を晴らすように、罵声を彼女に浴びせており、女の方は防戦一方の状態であった。男の方はだいぶ酔っていたみたいで、明らかに彼女は困っている様子だった。

 女の方は少し涙を浮かべており、今にも声を上げて泣き出しそうな雰囲気だった。

 私は酔っていたのか、このような場面ではいつも関わらないようにするのだが、ゆっくりと男に近づき、胸倉を掴んで睨んだ。

 男の髪は綺麗に七三に別けられ、所々にフケが溜まっており、雨の日の車内で運悪く嗅いでしまう整髪剤の匂いがした。

 男は突然に胸倉を掴まれたので、顔色を変えて逃げるように店を出て行った。

 周りの客の視線が私に注がれ、私は一気に酔いが冷めたと同時に、顔が赤くなり席に着いた。さっきまで男の罵声に硬直していた女が私の席に来て、頭を下げた。

「ありがと ここに座っていい?」

 私が返答する前に、彼女は向かいの席に座った。透き通ったような細い髪が彼女の肩を撫で、彼女はそれを癒すように後ろに振り切った。

 細い髪が生きているように仰ぎ、背中の後に隠れた。至福に満ちた肌と、どこか悲しげな目が均一に彼女の美しさを強調していた。

「私は小泉幸子」

「南川正文です」

「学生?」

「いえっ、フリーターです」

「おじちゃーん、厚揚げ二つ」
 
 彼女は私の声を掻き消すような大きな声で二人前を注文した。私はこの店の名物の厚揚げをさっき食べたが、口には出さなかった。

「小泉さんは、何をやってる人なんですか?」

「私はキャバクラ嬢よ、趣味は屋上巡り」

「屋上巡り?」

 さちは私の予想通りの反応に満足気な顔をして話を始めた。

「そう、屋上めぐり。東京には信じられないくらい高いビルがあるでしょ、仕事の休憩時間にそういうビルに黙って忍び込んで屋上に上るの。そして一人で夜の東京の町並みを見ると、とても不思議な気分になるのよ、本当の自分が見えてきて、また頑張るぞって気持ちになるの」

「つまり、高いところから自分の歩いて来た道を再確認しているんだね」

 私の何気なく出た言葉に、さちはカメのように首をかしげていた。

 私は東京を見下ろしている彼女の様子を容易に想像できた。きっと彼女も満たされない空間をもがいているに違いない。

 彼女はテーブルに運ばれた厚揚げを二つともぺろりと平らげた。

「それ俺の分じゃなかったの?」

「あら、欲しかったの、じゃあ頼んだら」

 私は今日二回目の厚揚げを注文した。厚くて熱い厚揚げの上に土生姜とネギとしょうゆをかけて食べた。口の中で厚い汁が弾け、舌を驚かせた。口から空気を入れて、興奮した口内をなだめた。

 私はさちに自分の生い立ちの全てを話した。映画が好きだったこと、両親から医者になることを義務付けられたこと、大学に失望したこと、大好きな兄がいること、彼女は一つ一つの話を丁寧な表情をして聞き入ってくれた。

 私は話すというより、自分の全ての過去を思い返し、自然に吐き出しているといった感じだった。

 それはさちの持つ不思議な受け手能力なるものがあったからだろう。

 それから、さちとは二時間ぐらい店で話しこんだ。彼女は帰り際、名刺をくれた。

 裏には携帯の電話番号が書いてあった。

三日月キャロット 10

 三木さんが殺された事件から一週間後、私はバイトを辞めることを店長に告げた。

 店長は、とくに私を引き止めたりせず、バイト最後の日に飲み会を開いてくれた。
 
 私はその日、ベットに着くまで三回吐いた。親父と同じで、酒に弱かった。

 私の父は地元では有名な南川病院の院長であり、私は幼い頃から当然のように贅沢に身を包んでいた。その反作用を為すように息子達は幼いころから医学部に進むことを義務づけられ、小学校の時から塾に通い、家庭教師をつけられた。

 小学校五年の時に、ただ勉強するだけの子が褒められ、認められる家庭にいることに気付いた。歳が二つ上の兄は一浪の末、京都大学の医学部に合格した。

 兄は頭がよく、やさしく、いつも私や家族のことを心配してくれた。

 本当は私も兄も医者になりたいとは思っていなかった。兄も私も映画が大好きで、両親の目を盗んで見た映画について、議論を交わす時が一番楽しかった。

 兄は親の期通りに医学部に進み、親の後を継ぐつもりだったが、私は兄と同じように医学部には進めなかった。毎日が映画付けだった私を入れてくれる医学部など存在しなかったからだ。

 受けた四つの医学部は当然のように落ちて、東京にある二流大学の工学部に入学した。


 二年の夏が過ぎても、始めから何も無かったかのように、私は大学には行かなかった。何か大学が既に人間味の無い私を受け入れてくれないような気がした。

 大学というモラトリアムを超越した力なき浮遊体が全国に堂々と存在している事自体が私には理解できなかった。

 私は学問の自由に縛られた組織に自分がまだ属していることが嫌になり、二年の秋に親には黙って退学届を出した。

 それから暫くの間は、実家から送られてくる仕送りで毎日、映画館や漫画喫茶に行って、ただ流れてくる時間を受け止めていた。そうしてダラダラとした生活を三ヶ月近く続けた。

 仕送りは他の学生に比べて多いほうだったので食事や買い物には結構贅沢をしていた方であった。

 その年の暮れに大学側から実家に連絡が入り、退学したことが親の耳に入った。

 私は正月になっても実家に帰ることを躊躇って、三箇日は全て漫画喫茶で過ごした。二月から仕送りが途絶え、あっという間に貯金が底をついて家賃が払えなくなっった。

 私は住み込みのバイトを転々とした。新聞配達、麻雀店、中華料理店など様々な店で働いた。喫茶店で働いていた時のマスターに勧められて公務員の試験なんかも受けたが、面接で大学を中退したことについて聞かれ「なんとなく」と答え、面接官を唖然とさせた。

 私の不堕落な生活が石灰岩のように固定しかけた時に、さちに出会った。

三日月キャロット 9


 三木さんが殺されてから、二日後。私のところに刑事がやって来た。

 「ふ~ん、それで相談されたわけだ。」

 私は、三木さんから聞いた坂之上さんのことをすべて話した。自分でも驚く程、あらゆることを喋ってしまった。

 タバコ臭い刑事は驚いた表情もなく、私の言葉を手帳に書き込んでいた。

 横にいた若い刑事が、部屋の中をジロジロと見ていた。首筋にある剃り残しの毛を撫でながら、その若い刑事はニヤついていた。

 若い刑事の視線の先には、壁に貼られた松浦あやのポスターがあった。

 その2日後、坂之上さんは全国指名手配の殺人の容疑者となった。一週間ぐらいストーカー殺人としてワイドショーなどの各メディアで取り上げられた。

 インチキな心理学者が難しい言葉を使って、説明できない事を無理やり説明していた。隣の司会者が台本のページをめくり、お得意の行政批判をして、次の話題へ移った。


 事件から数日がたった後の夜、私は三木さんを抱いた夜を思い出していた。

「彼女の経験は自分だけか・・」

 真夜中にカーテンを閉めず、私は現実に確認するようにベットの上で呟いた。

 私はお葬式の時にも涙は出なかった。ただ彼女とのはじめての夜を思い出していた。葬式中はずっと、股間を押さえていた。

 確かに言えることは、三木さんが殺されたのは半分、私の責任だった。

 私が、坂之上さんに三木さんを殺させたのだ。


 三木さんに坂之上さんのことを相談された次のバイトの日に、私は坂之上さんを飲みに誘った。

 バイトが終わったあと、私達は五反田駅近くの居酒屋に入った。

「まさ、俺は三木が好きでたまらないよ。レイプしてでも彼女を抱きたい」

坂之上さんは酔っているわけではなく真剣だった。

「彼女の胸は見た目より大きいですよ。形もいいし」

 坂之上さんの表情が少しこわばった様に見えたが、私は挑発するように言葉を続けた。

「彼女の住所を教えます。後は坂之上さん次第です」

 私はそういってテーブルにおいてあった店のチラシの裏に駅から彼女のアパートまでの地図を書いた。坂之上さんはその紙を大事そうにポケットにしまった。

 坂之上さんとは店の前で別れた。坂之上さんの後姿は、何かを飲み込もうとしている巨大な雲のように大きかった。

 私は、彼の姿が見えなくなるまで、見送った。