BOOK REVIEW : 「吉田茂という反省」:杉原誠四郎・阿羅健一対談書 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

BOOK REVIEW : 「吉田茂という反省」:杉原誠四郎・阿羅健一対談 

 

憲法改正をしても、吉田茂の反省がなければ何も変えられない  :自由社。平成30年8月発行。全400ページ。

 

世の中に、吉田茂を褒め称える本は満ちています。それに対し、吉田茂を非難する本は稀にしか見かけません。

 

占領下という、戦後の日本の原点となった時期に首相を務めた吉田茂に対し、このような一方的な礼賛の見方だけで良いのでしょうか。

 

前編として「吉田茂への検証」と称し彼のなしたことについて論じていきたいと思います。

 

1.吉田茂と安全保障の問題

 

昭和25年6月21日、朝鮮戦争が始まる3日前。ジョン・フォスター・ダレスがやって来た。

 

ダレスが吉田に日本の再武装を要求した。ダレスは吉田が快諾すると思っていたが、しかし、思いがけず吉田は拒否する。

 

吉田は、占領軍の継続駐留を要請したのだから、日本が非武装のままでは危険だと思っている筈だ。

 

そう思っていたのに、吉田は再軍備に反対する。

ダレスにとってはとても信じられることではなかった。

 

ダレスの有名な言葉がある。「まるで不思議な国のアリスになった気持だった」と。

 

かの戦争においては、日本側にも日本側なりの言い分があったことをアメリカに認めさせたうえで警察予備隊ならぬ正規の軍隊を創設する絶好の機会だった。

 

吉田は、日本は経済的に軍隊を創設する余裕はない。

 

日本国民も再軍備に反対していると言ってダレスの申し出の再軍備を認めなかった。

 

ダレスが訪日した3日後に朝鮮戦争が始まったのです。

 

日本が非武装のままではおれないことは、まさに肌身で分かった瞬間です。

 

11月の時点で「朝日新聞の行った世論調査で再軍備に賛成の意見が53.8%で反対の27.8%を大きく上回った。

 

また、アメリカ軍に占領終結後も基地を提供することに37.5%が反対し、賛成は29.9%だった。

 

日本の再軍備は、アメリカ軍への基地提供より、 容易だったということで今の日本国民より、もっと健全な意見を持っていた。

 

ダレスが吉田に再軍備をしろと言ったとき「日本にもかの戦争には言い分があった」とダレスに言わせて名誉の回復を図り、そのうえで正規の軍隊による再軍備をしなかったのは、返す返すも残念だったということになります。

 

残念だったことは他にもあります。

朝鮮戦争が始まって警察予備隊が誕生しますが、運用の仕方によっては軍隊になる可能性があったことです。

 

敗戦からしばらくしてかっての軍人たちが将来に向けて軍隊の研究を始めます。陸軍では服部卓四郎、西浦進、堀場一雄といった大佐を中心に研究が進められました。

 

研究は秘密裏に進められ、朝鮮戦争が勃発する前年には新たな国防軍の骨子が作られています。

 

それによると、陸軍、海軍、空軍と分けることをせず、総司令官は一人、国防大臣も一人というものです。

 

対英米戦で陸軍が西方や大陸を指向したが海軍は太平洋で進む方向が全く違い、日本軍の総合力が発揮出来なかったという反省から統一軍を作ろうとしたのです。

 

この研究を助けたのがGHQ第二部長のチャールズ・ウイロビー少将です。

 

警察予備隊の人事はウイロビーに任されていたので、服部に部隊を編成して指揮官に就くように命令します。

 

一方、警察予備隊の創設命令を受けた日本政府は、治安部隊なのか軍隊なのか分かりませんでした。

 

戦前まで警察を掌握していたのは、内務省で、戦後は解体され幹部は追放されていました。

 

若手たちは追放された幹部が解除されたとき、戻れるように天下りポストを確保することに努めていました。

 

警察予備隊が創設と聞き、内務省で抑えておきたいと思い、一斉に政府関係者に働きかけました。

 

ここで、旧陸軍が警察予備隊を指導するのか、旧内務省が掌握するのかという問題が起きて来ました。

 

マッカーサーの下に、民生局長のホイットニーと参謀第二部長のウイロビーがいました。

 

ウイロビーと対立していたホイットニーは内務省側に立ちます。

 

この時、吉田は内務省側に立つことにしてマッカーサーに訴えてマッカーサーは、ホイットニー側に立った決断をします。

 

吉田の軍事顧問を務めていた辰巳栄一中将が語るところによると、服部たちが東条英機の部下だったからというのです。

 

服部卓四郎と西浦進や井本熊雄は東条陸軍大臣の秘書官を務めていました。

 

吉田が東条を嫌っていた理由は、吉田は戦時中に近衛文麿前首相と共に終戦工作を行い、近衛上奏文を仕上げていました。

 

吉田は近衛上奏文を筆写して牧野伸顕に見せようとして、筆者したものが憲兵の手に入り、陸軍刑法違反で4月15日に逮捕されます。そのため、吉田は東条陸軍大臣を憎みます。

 

こんな個人的なことで警察予備隊の性格が決まってしまったのです。

 

牧野伸顕は、薩摩の大久保利通の息子で、吉田は伸顕の娘と結婚していたのです。

 

それが年月が経つと敗戦利得者による国民の洗脳工作や自虐史観教育により、再軍備や憲法改正が困難になった。

 

吉田学校の弟子であった池田勇人元首相や佐藤栄作元首相は、軽武装で再軍備や憲法改正をやろうとしなかった。

 

池田首相は、佐藤栄作氏と仲たがいして宏池会と言う派閥を作った。歴代の宏池会会長には、前尾繁三郎、大平正義、鈴木善幸、宮沢喜一、加藤紘一、堀内光雄、古賀誠、岸田文雄現首相がいる。

 

作家の三島由紀夫氏は、再軍備のために自衛隊にクーデター決起を呼びかけたが失敗して自決してしまった。

 

 

2.吉田茂と経済発展

 

吉田が軽武装で経済成長の基盤を築いたという評価は間違いである。

 

ドッジラインによりデフレに陥って苦しんでいる昭和25年6月に朝鮮戦争が始まりました。

 

アメリカは軍需物質の調達に迫られ、日本に注文した。朝鮮特需が起こり、日本経済はデフレを脱却して一気に上向いた。

 

昭和25年12月からアメリカは、ベトナム戦争に介入した。

 

アメリカは日本の兵器産業が要望に応えられると判断し、昭和27年3月に兵器製造許可の指令を出します。

 

昭和26年1月25日にダレスが大統領特使として再訪日して再軍備を強硬に要求します。

 

吉田は、2月3日、ごく側近とだけ相談して回答します。

 

国家安全省を新たに設けて、その中にかっての参謀本部のような防衛部を設け、5万の国防軍を創設するというものです。

 

本格的な軍隊を創設するというのでダレスは、了解します。

しかし、日本側では吉田を含めて数人しか知らず、吉田はマッカーサーにも内密にしてくれるように頼み、この事実は公になっていません。

 

当然、日本国民も知りません。もちろん吉田は実行せず、約束を反故にします。

 

3.吉田茂と憲法改正

 

現行憲法は、占領軍において25人で7日間で仕上げられ、昭和21年2月13日に日本側に押し付けた。

 

その時同席したのは、アメリカ側が民生局のホイットニー准将、次長のケーディス大佐,ほかに2名の中佐。

 

場所は麻布の外相公邸。日本側は、吉田茂外相、松本丞治国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与、長谷川元吉外務省通訳の4人でした。

 

ホイットニーが回想録の中で「吉田はメモに目を通すと、たちまちのうちに顔色が、黒い雲に覆われたように変わった」と書いているそうです。

 

吉田は、昭和21年5月に内閣総理大臣になって憲法改正の審議をするときには、あたかも無条件の戦争放棄論を展開した。

 

昭和25年にダレスが来て再軍備をしろと言っているのに、憲法9条を盾にして再軍備をしなかった。

 

芦田修正を踏まえれば再軍備出来るのにしなかった。

 

講和条約が締結された後の昭和26年9月20日の朝日新聞に発表された世論調査では、「日本も独立国になったのだから、自分の力で自分の国を守るために軍隊を作らねばならぬ」という意見があります。

 

この意見に賛成ですか、反対ですか。賛成が71%で反対が16%だった。

 

これは、真剣に取り組めば明らかに、憲法改正は可能だった。

 

吉田茂が占領終結前に出来なかったとしても、占領終結後に憲法改正を試みるべきだった。

 

憲法改正の好機にあえて対応しなかった。

 

そしてこの時、憲法改正をしなければその後どんなことが起こるか想定する能力が欠如していたと言わざるをえません。

 

憲法改正に取り組んだ人たちはたくさんいました。

 

例を挙げると、昭和27年春、芦田均は再軍備促進運動を起こします。講演会を全国で開き、国民の関心をさらに喚起しようというものです。

 

大阪の中の島公会堂で開かれた講演会で前代未聞の6千人が集まりました。

 

芦田の運動に対して共産党側からの妨害が当然のように起き、会場では300人の共産党員が弥次で妨害します。

 

吉田は世論に従わないばかりか、世論を抑えるための工作をした。

 

結局、吉田は物事が見えず、首相の能力としての責任感を持っていなかったのです。

 

岸信介元首相は、憲法改正をやる気だったが、その前に片務的な安保条約を改正しようとしたら、猛烈な反対デモが起きて安保改正後に辞任を余儀なくされた。

 

令和4年2月1日に亡くなった石原慎太郎氏は、憲法改正を成し遂げようとしたが、出来なかった。

 

この対談でわかったことは、吉田茂が反軍ではなかったことで、東京裁判の戦犯に挙げられたが、憲兵隊に逮捕されたことが反軍であるとみなされ免れたことで幸運だったのである。

 

吉田茂の奉天総領事時代は、強気一点張りの権力政治であった。満州での積極政策を主張し、陸軍と同一歩調をとっていた。

 

吉田茂の英国大使時代に日独防共協定に反対しますが、吉田の見解は正しかった。

 

杉原氏が言うのには、やはり根はイギリスへの好感とドイツへの悪感が心底にあったからでしょう。

 

吉田は、理論的には物事を考えられなかった人だったけれど、その分、動物的な勘があったからと思います。