BOOK REVIEW :「吉田茂という病」 日本が世界に帰ってくるか 杉原誠四郎・波多野澄雄著、自由社、令和3年12月発行。 NO. 1
この本は、令和3年発行の最近版であり、454ページにわたる大冊の対談本である。
現在の日本は、占領による様々な「負の遺産」が残り、そのために戦前の日本と戦後の日本とは切断されたままになっている。
それは主権を回復して以後の日本が、占領に対して十分に対応してこなかったことにあるのではないか。
そこで問題になるのが、占領期の大方の時期と占領解除直後のしばらくの間の時期を首相として日本を率いた吉田茂の占領に対する対応に焦点を当てざるを得なくなる。
吉田茂がこの時期適切に対応していたら、日本はかくも戦前と戦後とで切断されてはいなかったのである。
例えば、再軍備のや憲法改正は、吉田茂の時代に解決出来た状況にあったが、政治家の実績は結果から判断されるのだから、不適切な対応をした吉田茂は糾弾されるべきである。
本書は,第1章:日米戦争を引き起こした原因はどこにあるのか。第2章:日本は終戦をどのように迎えたか。
第3章:日本は占領をどのように受け入れたか、よりなる。
NO. 1 「日米戦争の遠因は明治にあり」
東北列藩を辱めた戊辰戦争は、その後薩長閥として結実し、明治維新の功を薩長が独占してしまいました。
つまり、明治は、会津をはじめ東北列藩に故なき怨念を残した。
今回の日米戦争で活躍した軍人で、薩長出身で活躍した人は殆どおりません。
日米戦争の大立者と言えば、陸軍では東条英機、海軍では山本五十六。
いずれも戊辰戦争の時、心ならずも賊軍にさせられたところの出身ですね。私は、彼らに内々には、明治の軍人のように功を立てたいというか野心のようなものが無意識の内にもあったと思う。
*東条と言えば南部藩の出身、父の英教は、陸軍大学を首席で卒業した。山県有朋にうとまれ出世の道を閉ざされ、軍隊を辞めてからは、山県を徹底的に批判します。
その父の下で育った英機は徹底的に長州を嫌います。
ですから長州を中心とした明治の軍人のように武勲を立てたいという衝動が潜在的にあることになる。
東条は確かに首相になってからは、昭和天皇の意向を大切にして日米戦争を避ける努力をした。
総力戦研究所の結論は、昭和16年8月27日、首相官邸で発表された。
「物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、結局ソ連参戦を迎え日本は敗れる。だから日米開戦は何としても避けねばならない。」
東条英機は、陸軍大臣としてこの報告会に出席して次のように言った。
「戦と言うものは、計画通りにいかない。以外裡なことが勝利につながっていく。君たちの考えていることは、机上の空論と言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります。」
総力戦として必敗であるという結論が内閣の設置した「総力戦研究所」で出れば,避戦の方向に満身の努力をすべきです。
しかし、石油の輸出を止められた状況でありましたが、そのための避戦の努力の形跡が無いのです。
戦えばもしかすれば勝てる展開が起こるかもしれない。明確な根拠もなくそう思った。
そこに、戦争になっても構わない、戦争してみようか、という思いがあったようにどうしても思われるのです。
*日米開戦のもう一人のキーパーソン、山本五十六についても同じことがいえるのです。
山本がけしからぬと私が思うのは、真珠湾奇襲の作戦が広く知られ、日本が真珠湾攻撃して成功しても、最後は日本が負けるというストーリーが本になって広く読まれているのに、本当に実行したことです。
日露戦争以降、「日米もし戦えば・・・」という日米戦争をテーマにした小説、軍事評論は多数出版されており、バイウオーターの結論は、戦争は奇襲によって始まり最終的には経済力の差によって日本は必ず敗北するというものでした。
バイウオーターは、1925年、この考えを纏めて堀敏一訳で「太平洋戦争―日米関係未来記」(民友社・1925年)として出版した。
山本五十六は1919年から1921年まで駐在海軍武官としてワシントンにいて、こうしたストーリーに接しており、後にバイウオーターの本も読んでいた筈です。
ウイリアム・ホーナン「リメンバー「真珠湾」を演出した男」(徳間書店・猪瀬直樹監修・1991年)によれば、山本はバイウオーターをよく勉強しており、その対米戦略も酷似していると書いています。
実際に行った真珠湾奇襲は「騙し討ち」になったこともあって、アメリカ国民は憤慨し逆の結果となった。
たとえ「騙し討ち」でなかったとしてもアメリカ国民は士気を阻喪して日本に和を求めてくるとは考えられません。
山本の父は、戊辰戦争に従軍して、敗れて流離の旅を重ね、長岡に帰って小学校長を30年も務めた人物でした。
山本は少佐の時に、旧長岡藩主に懇請されて山本家を継いだのですが、その山本家も、維新以来十数年も家名断絶となっていて、山本が相続した財産も僅かなものだったといいます。
こうしたことから来る怨念があったと思いますが。
*伊藤博文は、内閣で総理大臣の統率する指導権を認めない脆弱内閣を、大日本帝国憲法を作るとき、作ってしまいました。
弱い内閣を作って、明治の元勲の指導力、影響力を残そうとしたとしか思えない。
その結果、大正、昭和の内閣が直ぐに倒れる内閣となり、結果として統帥権独立を生み出すことに繋がった。
内閣制度の創設に当たって、憲法起草者が、目先の藩閥の利害に捉われたために、将来の展望を欠いた不安定なものになってしまいました。
*日露戦争後の翌年、明治39年、参謀総長になっていた大山巌は「日露戦争編集要綱」を定める。
この要綱の下に出来た「日露戦史編纂に関する注意」で功績本位に書き、批判は厳禁ということにした。
顕彰や功績本位の編纂本位や執筆基準では、後世の役に立たない.後世の人や軍隊も誤る。
日露戦争は絶対に先例にしてはならない。先例にすれば必ず国を誤ると、その後の軍人や国民に言い残しておくべきでした。
*日露戦争直後の、アメリカの鉄道王ハリマンの満州の鉄道の共同経営の申し込みを、外務大臣小村寿太郎が断ったことが日米関係に重大な影響があった。
ハリマンは、伊藤博文や桂太郎首相と会って、彼らに他日、ロシアが復讐戦を行ってくる可能性のあることを言い、南満州鉄道の共同経営を申し込んだ。伊藤も桂も当然同意し仮約束までした。
帰って来た小村は猛然と反対した。小村寿太郎は、憤慨してこの提案を潰したが、それは後年、満州事変などで日米対立の原因となった。
小村は、日露講和条約締結の功を独占しようと思ったのではないか。
桂太郎首相には、閣僚を罷免する権限がなかったので断ったが、ロシアの復讐に対する保険の意味で日米共同経営は良い提案であった。
*歴史は繰り返すで、昭和16年4月、松岡洋石がスターリンと日ソ中立条約を結んで日本に帰ってきたとき、日米諒解案なるものを潰す過程と酷似していると思う。
「日米諒解案」なるものが、自分の知らないところでできた案だと知ると機嫌が悪くなり、放置して日米和解の機会をわざと潰してしまった。
◎もし、吉田以外の首相だったなら、憲法改正し、再軍備をして、拉致問題や韓国の竹島領有は解決していただろう。
北朝鮮によるミサイル実験を眺めていることなく、中国による台湾侵攻や尖閣占領に対する備えも万全で、日本の安全保障に問題はなかっただろう。
米軍依存もなくイージス艦など買わされることなく自主防衛は可能であったと思う。