【昭和天皇の87年】
大日本帝国最後の一週間(5): 第1回御前会議 形勢を左右した枢密院議長の発言
昭和20年8月9日深夜、皇居の地下防空壕・御文庫附属室に集まった政軍首脳は、身を固くして昭和天皇を待った。
同日未明にソ連軍が満州に侵攻、正午前には長崎に原爆が落とされ、国内外の戦争被害が急拡大している。
ポツダム宣言を受諾して終戦するか、より多くの条件が認められるまで抗戦するか-。
これから日本の運命を決める天皇臨席の最高戦争指導会議、すなわち御前会議が始まるのだ。
出席するのは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾(これちか)陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武(そえむ)軍令部総長の6人と、鈴木の意向で加わった枢密院議長の平沼騏一郎。
このうち鈴木、東郷、米内が終戦派。
阿南、梅津、豊田が抗戦派で、平沼の態度次第で流れが大きく変わることになる。
日付が変わった10日午前零時3分、昭和天皇が侍従武官長の先導で入室、御前会議が始まった。
総合計画局長官として陪席した池田純久によれば、最初に鈴木が臨時閣議の経緯を説明し、東郷が改めてポツダム宣言の受諾条件について訴えた。
「情勢から見て、多くの条件を出すことは全部を拒絶せらるる危険があります。
ただ一つのものを提案するのがよいと思います。
それは皇室の護持安泰であります」
米内が言った。
「外務大臣の意見に同意します」
阿南は反論した。
「外務大臣の意見には全然反対であります。あくまで戦争遂行に邁進(まいしん)すべきものと考えます。
ただし和平を行うとせば、この四条件(国体護持のほか戦争責任者の自国処罰、自主的な武装解除、保障占領の拒否)は絶対的なものであります」
「本日突然のお召しにて何ら腹案もなく出席致しました。
しかし状況はきわめて窮迫しておりますがゆえに、私の意見を申し述べます」
平沼は語気を強めた。
「外務大臣の趣旨に同意であります」
これで、外相案への支持表明が平沼、東郷、米内の3人、不支持表明が梅津、豊田、阿南の3人。
いよいよ聖断を下す環境が整った。
首相の鈴木は、あえて自分の意見を明らかにはせず、最後にこう言った。
「皆じゅうぶん意見を吐露したものと認めます。
しかし意見の一致を見るに至らなかったことは遺憾であります」
そして静かに席を立つと、昭和天皇の前に進んで深く頭を下げた。
「外務大臣案によるべきか、または四条件を付する案によるべきか、謹みて御聖断を仰ぎます」-
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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【参考・引用文献】
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
○池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版)
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最高戦争指導会議: 政府と軍部のトップが連絡調整を強化し、一元的な戦争指導を行うための会議。
日中戦争が勃発した昭和12年、近衛文麿内閣のもとで発足した大本営政府連絡会議を前身とし、先の大戦終盤の19年8月、最高戦争指導会議と改称された。
構成員は首相、外相、陸海両相、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)で、戦争指導の根本方針を策定。また、国家の重大事には首相らの要請で天皇が臨席することもあり、その場合は御前会議と呼ばれた。