志那事変が8年間も続いた訳  ライズアップジャパン | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

戦前の日本はなぜ、
泥沼の支那事変に
巻き込まれてしまった
のでしょうか?


その謎を解く鍵は
「二枚岩の中国」です。


私たちは当時の中華民国というと

「1つの国家」

だと思いがちですが、
実はそれは間違いです。


中国共産党の毛沢東が後年

「日本と中国国民党と共産党の三つ巴だ」

と語ったように、3つの立場を
知らないと、大陸で起きていた
「いざこざ」がよく見えてきません…


実際、日本と中国の全面戦争は、
毛沢東に大きな利益を
もたらしました。


それまで、国民党の蒋介石は、

共産党軍に独立指揮権を
認めることを拒否してきました。


しかし、敵は当時“アジア最強”の日本軍…


戦えば国民党は、一方的にやられました。


そして自分たちの軍が
強大な日本軍に潰されている今、、、


ついに国民党の蒋介石は、
共産党軍に「独立指揮権」を
認めざるをえませんでした…




こうして、蒋介石は
かたち上は中国軍の
最高司令官でありながら、
共産党軍を直接動かすことは
できなくなったのです。


それまでは毛沢東に対しての指示も

「~しろ!」

という“命令”の形を取っていました。


ですが、徐々に

「~してくれないか?」

という“要求”の形で
出さなくてはならなくなりました。



いまや中国共産党は事実上、
「合法政党」となったのです。


刑務所に収監されていた
共産党員は釈放され、、、

共産党は主要都市に事務所を開き、、、

国民党支配地域でも党機関紙を
発行できるようになりました、、、


しかもこれはまだ、
毛沢東が抗日戦争から得た
利益のほんの一端でした…


毛沢東にはさらなる作戦があったのです…


共産党軍の指揮官や兵士たちは、
蒋介石に認められ、力を持ったことで

「ついに日本と戦える!」

と勇みたっていました。


しかし、毛沢東だけは
そうではなかったのです。


毛沢東は、日本と戦うフリをしながら、
蒋介石を滅ぼす「ある作戦」を始めました、、、


日本軍が国民政府軍を打ち負かすのを待ち、
日本軍が進軍していった
あとの後背地を領土として
獲得することに集中したのです。



日本はたとえ国民党軍に
勝っていったとしても、
本国よりはるかに広大な
中国の地域を維持することは
できませんでした。

日本が戦った跡地は
早い者勝ちの取り放題だったのです。


毛沢東は前線の指揮官に
次々と電報を送り、

「戦闘ではなく……
 根拠地創造に集中せよ……」

と指示を出しました。


さらに毛沢東は同時に、

「日本に敗れて逃げた国民政府軍の
 兵隊を集めて共産党軍を拡大せよ」

という命令も出しました。



侵攻していく日本軍の後方で
おこぼれを拾って共産党軍を
拡大強化していく、、、


これが毛沢東の作戦でした。


実際、毛沢東はのちに

「日本が占領地を多くとればとるほど好都合」

という意識だったと語っています…



毛沢東がこのような作戦に出たからこそ、
日本は勝っても勝っても
戦争は終わることはなく、、、

ひたすら奥地に
引きずり込まれていった訳です、、、


しかしこれは毛沢東が企んだ
作戦の「ほんの一部」にすぎません。


支那事変が始まる前には
国民党と共産党の戦力差は
60対1と圧倒的でした。

しかし、1945年にはそれが
3対1にまで縮まっていたのです。


ここまで差を縮めるためには、
「物理的な戦闘」だけではなく、

「情報戦」

が欠かせませんでした…


毛沢東はいかにして
「情報戦」を戦ったのか?_


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ーライズ・アップ・ジャパン事務局 小川友希